山口県の萩市の香炉がアップされた=写真。「萩焼かな」というと、「歯磨き?」と聞き返す。カミサンには「ハギヤキ」が「ハミガキ」に聞こえたらしい。言葉を発する口も、それを受け止める耳もだいぶ衰えてきた。目だってこのごろは焦点がぼやけて、文字を誤読するようになった。
詩集『村の女は眠れない』で知られる草野比佐男さん(1927~2005年)が、ワープロを駆使して限定5部の詩集『老年詩片』をつくった。「作品一」は「老眼を<花眼>というそうな」で始まる。
2行目以降。「視力が衰えた老年の眼には/ものみな黄昏の薄明に咲く花のように/おぼろに見えるという意味だろうか」と、草野さんは<花眼>の意味について考える。「あるいは円(まど)かな老境に在る/あけくれの自足がおのずから/見るもののすべてを万朶(ばんだ)の花のように/美しくその眼に映すという意味だろうか」
いやいや、そんなことがあるはずはない。「しかしだれがどう言いつくろおうと/老眼は老眼 なにをするにも/不便であることに変わりはない」「爪一つ切るにも眼鏡の助けを借り/今朝は新聞の<幸い>という字を/いみじくも<辛い>と読みちがえた」
この詩集の恵贈にあずかったとき、私は38歳、草野さんは59歳だった。それから30年余りたった今、「花眼」の現実にさらされている。私も<幸い>を<辛い>、<妻>を<毒>と読み違えたりする。
少し前に遠近両用から老眼に合わせた眼鏡を新調した。眼鏡の上部で文章を読むと字がぼやける。先日、ネットに載った文章をそうして読んでいたら、まど・みちおの「ぞうさん
ぞうさん……」を「ぞうきん ぞうきん……」と「ぞうさん」のメロディーにのせて歌っていた。なんで「ぞうきん、なんだ」とわれながらおかしくなった。
「イグアスの滝」が「イグアナの滝」になり、「スーラー野菜湯麺(タンメン)」が「ソーラー野菜湯麺」に、「フォアグラ」が「フェラガモ」に化ける。幼い子は大きくなるにつれて類音を区別するが、年をとった大人は逆に類音の区別がゆるやかになっていくのだろう。
「手はふるう足はよろつく歯は抜ける耳は聞こえず目はうとくなる」。江戸中期の俳人(尾張藩士)横井也有(1702~83年)の狂歌が身に染みるこのごろだが、老いの坂道に待っているのはそれだけではない。
認知症という関門がある。もしかして、という人と出会った。「加齢によるもの忘れ」と「認知症によるもの忘れ」の違いを知らねば――。きのうは朝、ネットから情報を引っ張り出して読み漁った。若いころは「ボケるが勝ち」なんていっていたが、今はボケの現実を身近に見聞きするにつけ、どうやったらそれを遅らせられるか――というふうに変わってきた。
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