2019年12月29日日曜日

献身護空の碑

 上の孫(小6)がサッカーの試合に出るというので、きのう(12月28日)朝、いわき新舞子ヴィレッジへ出かけた。家にいる分には晴れて穏やかな年末だが、フィールドの外の外、駐車場から観戦していると、猛烈な北風に体が凍えてくる。前半=写真下1=は我慢して見ていたが、後半、双眼鏡で孫が交代したのを確かめると退散した。
 帰りは滑津川河口から県道豊間四倉線、通称・海岸道路に出て、新舞子の防風林のなかを縦断した。途中に藤間沼がある。北国から渡って来たカモが休んでいるかもしれない。バードウオッチングは一瞬でいい。車からチラッと見ると、種類はわからないがカモが1羽いた。あとはただ水面が縮緬のようにゆれているだけ。

 そのまま通り過ぎようとしたら、南と北の沼の境にあるゆるやかな太鼓橋の手前、カモたちがオカに上がって盛んに何かをついばんでいる=写真下2。体色と模様から、ヒドリガモらしかった。えさは緑の残る草、あるいは草の種子か。
  太鼓橋の奥の右側には公衆トイレ、左側には「献身護空の碑」。忘れていたが、若いときにこの記念碑の話を取材した。

ネットで検索すると、45年前の昭和49(1974)年7月29日付いわき民報がヒットした、「献身護空の碑は藤間公園に/航空記念日に移転祭/アクロバット飛行も」。記事を書いたときの様子がよみがえった。当時、出入りしていた草野美術ホールのオーナー、「おっちゃん」こと草野健さんが情報を提供した。記念碑の移設は草野さんの悲願でもあった。

 前文(少し修正してある)。「海岸浸食を防ぐ護岸工事の影響で、なかば土砂に埋もれていたいわき市平藤間の新舞子海岸にある『献身護空の碑』が近く、いわき少飛会(〇×会長、36人)の手で約120メートル北西の松林(藤間公園)の中に移転される。9月15日には殉職者の遺族や建立当時の関係者などを招いて入魂式を行うほか、チャーター機によるアクロバット飛行、陸上自衛隊郡山駐とん地の音楽隊による慰霊吹奏が計画されている」

 本文によると、昭和10(1935)年8月28日、荒天をついて青森から浜松飛行学校へ向かう途中の九三式双発軽爆撃機が故障し、新舞子海岸に不時着を試みたが失敗、搭乗していた2人が死亡した。地元民が中心になって2人の冥福を祈ろうと奔走、翌年7月、なぎさから300メートル離れたところに「献身護空」と刻まれた砲弾型の記念碑が建立された。

 ところがその後、海岸浸食が進み、昭和40年代には記念碑からなぎさまでは40メートル前後という状況になった。それまでひとり、同碑の清掃をしてきた航空兵出身の草野さんが、元少年飛行兵の集まりであるいわき少飛会などにはたらきかけて移設を実現した。

平成23(2011)年3月11日の大津波では、新舞子海岸の黒松林は後背地の家や田畑を守る“クッション”になった。しかし、松は地中にしみこんだ塩分を根が吸い上げ、浸透圧によって脱水症状を起こしたため、やがて遠目にも葉が枯れて“茶髪”になり、密林から疎林に変わった。藤間沼と道路の間にあった若い黒松も立ち枯れた。「献身護空の碑」はこのとき、どうだったのだろう。

今ではすっかり忘れられた記念碑である。私もふだんは忘れている。拙ブログでも触れたことがないので、備忘録のつもりで紹介した。

図書館のホームページにある「郷土資料のページ」を利用していわき民報を読めば、移転慰霊祭の様子もわかる。さらに、戦前、いわき地方で発行された地域新聞を読むこともできる。当時の記事には、青森へ北上中、事故に遭った、とある。こういうときに、聞き書き主体の新聞のもろさが出る。南下か北上か――も含めて、遭難の経緯を洗い直さないといけないようだ。

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