2020年2月14日金曜日

「生活の伝統の研究」

 ざっと1年前、若い友達がポリタスに「『津波と村』――なぜ人は原地に戻るのか」を寄稿した。論考の前半で地理学と民俗学に橋を架けた、会津出身の山口弥一郎(1902~2000年)の『津波と村』を紹介し、後半で復興のビジョンの根底にあるものを見すえながら、東日本大震災と原発事故について書いている。
前半と後半の間に山口のメモを引用している。このメモに感銘を受けた。書き写して、ときおり読み返してきた。

『津波と村』は東日本大震災の直後、復刊された。まずはそれを読んだときの拙ブログ(2011年8月10日付)を抜粋する。
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いわき総合図書館の新着図書コーナーに山口弥一郎の『津波と村』(三弥井書店)があった。帯に<1933年の三陸大津波による集落移動を分析した地理学と民俗学の狭間に生きた著者60年に及ぶ研究成果の集約>とある。3・11を経験して「名著」が再び日の目を見ることになった。

 山口弥一郎とくれば、磐城高女、磐城民俗研究会だ。地理の教師として磐城高女に赴任し、昭和10(1935)年9月、柳田國男門下の高木誠一(北神谷)、同僚の岩崎敏夫、高木の甥の和田文夫(四倉)らと「磐城民俗研究会」を創設する。

 山口はその年の師走、昭和8(1933)年3月3日に発生した「昭和三陸津波」による村の荒廃、移動調査を始めた。学校の冬休みを利用しての旅だったろう。数次にわたる現地調査のあと、戦時下の昭和18(1943)年、柳田のアドバイスで一般人向けの『津波と村』を出版する。

「昭和十五年には民俗研究の學友である磐城の和田文夫君を岩手へ呼び、三陸海岸一巡の途、特に一日両石の民俗採集を依託した。これは柳田國男氏指導の下にある民間傳承の會が、特に漁村の生活研究資料採集の為作った手帖によった」。<両石の漁村の生活>の項がそれに当たる。
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山口の没後、山口の遺品の一部であるノートや原稿、写真などの調査研究資料が磐梯町の慧日寺資料館で保管されている。そのなかに、阪神・淡路大震災が起きたときの新聞記事を張り付けたスクラップブックがあったのだろう。次のような添え書きを、若い友達が引用していた。

「神戸海岸・横浜海岸には勿論原子力発電所はない/然し日本の原子力発電所は海岸に分布し海底地震の真正面にある/これは今までのリアス湾頭の災害と全く様態の異なる被害を及ぼすであろう/そのメカニズムを研究した人は未だ世界中に見当らない」

 山口はこのとき92歳。その5年後、97歳で亡くなる。山口の危惧が現実のものになるのはそれから16年後。90歳を過ぎてもなお旺盛な山口の問題意識、学問的良心に打たれた。

 それからしばらくたって、復刊本とは別に『山口弥一郎選集 第6巻』(世界文庫)に収められている「津波と村(抄)」を読んだ。「津波と村」のテーマは、若い友達が指摘しているように「なぜ一旦移転した集落が原地(元の場所)に戻ってしまうのか」だ。

 いわきでも東日本大震災後、沿岸部に防災緑地が築かれ、集落の背後にあった丘が削られて、「高台移転」事業が進められた。『津波と村』に載る旧・鵜住居村両石地区の集落移動図(斜線で囲まれた四角が以前の集落、白い四角が高台の復興集落)=写真=を見ながら、いわきの沿岸部の今後を考えずにはいられなかった。

 山口は<両石の漁村の生活>の最後に書いている。津波の大災害は漁村の古くからの生活の伝統を押し流したが、復興をとげて落ち着いてくれば再び生活の伝統がよみがえる。生活の伝統はそれほど古くから固持されている。

 災害直後、役人や指導者が机上で設計・考案しても、集団移動が行われにくい一因がそこにある。村の生活の伝統を研究することは、長い地味な仕事だ。津波災害が忘れ去られたあとも、1人や2人はコツコツと続けていていい。災害に遭ったその土地の人間こそが長く調査研究を続けるべきだ――。「生活の伝統の研究」、つまりは市民による地域学である。

きのう(2月13日)、会津若松市の福島県立博物館でテーマ展「山口弥一郎がみた東北」が始まったという新聞記事を読んで、真っ先に若い友達が引用していた添え書きを思い出した。山口の慧眼に触れてほしくて、つい長文になってしまった。

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