2020年2月29日土曜日

川内村の友の訃報

 きのう(2月28日)早朝、ブログをアップしてフェイスブックをのぞいたら、「2月26日午後5時17分に、父志賀敏廣が永眠いたしました」という娘さんの報告が上がっていた。いきなりの訃報に愕然とした。
 夫婦で、アポなしで双葉郡川内村の陶芸工房を訪ねたのは平成5(1993)年10月。同じ昭和23(1948)生まれ、いわきに共通の友達(彼の中学校の同級生=私の高専の同級生)がいる、いわき市三和町から古民家を解体・移築する予定……。初対面なのに、たちまち意気投合をした。

以来、互いに川内といわきを行ったり来たりすること26年。個展やコンサート、マツタケを食べる会と、彼と奥方の志津さん(やはり陶芸家)が企画した催しが懐かしく、めまぐるしく脳内をかけめぐった。

彼は画家でもあり、木工作家でもあった。いわきでの油絵展のときに、チラシに小文を書いたことも思い出した。

夏井川渓谷の隠居の庭に、彼がつくった木製のテーブルとベンチがある。テーブルの脚は2代目だ。丸太(脚)と板(テーブル)、支えの角材だけの組み合わせが気に入って、「欲しい」というと、山を越えて運んできた。

この10年余、ブログで次の5回の展覧会について触れた。
・2009年5月15日付:いわき市平・エリコーナでの「花」をテーマにした油絵展
・2012年4月26日付:エリコーナでの「『残された花々』展~川内村へ帰ります~志賀敏広+土志工房 絵画と陶器展2012」
・2014年6月5日付:いわき市久之浜での「土志工房展」
・2015年4月15日付:川内村の志賀林業ログハウスでの「ちゃわん屋の木工展」
・2016年10月1日付:いわき市久之浜での「額の中の小さな宇宙展」

 東日本大震災で川内村は全村避難を余儀なくされた。その1年後、エリコーナで開かれた個展のときのブログを再掲する(土志工房は2人の仕事場、これに今は娘さんも加わる)
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「『残された花々』展~川内村へ帰ります~志賀敏広+土志工房 絵画と陶器展2012」が4月24日、いわき市平のエリコーナで始まった。29日まで。「二絃三絃のしらべ」と銘打ち、27日午後6時半から二胡とピアノ、翌28日午後2時から三味線と尺八のコンサートが同会場で開かれる。

志賀さんは浪江町で生まれ育った。父は旧小高町、母は双葉町の生まれ。ご両親とも花が好き。庭で草花も育てていた。今、志賀さんが居を構えているところは阿武隈高地の川内村。山野に木の花、草の花が満ちる。その双葉郡が放射能で汚染された。

あの日3・11のあと、原発の建屋が爆発する。たぶんその前からだろう。「隣の町から、村の倍以上の人が、川内村に逃げ込んできた。さらに爆発が続き、避難して来た人たちは更に、我々も又、村を離れなければならなくなった」

志賀さんは避難するとき、「家の庭に咲く花をひとかかえ切り取り、荷物で一ぱいになった車に積み込むことにした。絵具と画用紙とともに。/それがこの、花の絵画展の始まりである」と記す。

2011年秋。「この半年間、前半は災害にまきこまれ、後半は体調にめぐまれなかった。でもどちらも花を描くのに問題はなかった。ほとんど毎日のように花を描いても飽きることはなかった。日課になってくると描くものがなくなるととても淋しくなってしまう。/川内村に帰ろう、と思う」

そうした心の軌跡を経て、3月に郡山展、福島展が開かれた。最後のいわき展だ。会場はざっと3部構成になっている。画用紙に描いた草木の花、富士山=写真=をモチーフにした絵、陶器。

「2011、10月『富士』」と題された文章を抜粋する。「体調を崩した頃より、なぜか強く富士を意識するようになった。/富士山には、多くの人があこがれをもっていたようで、富士の傑作を描いた先人は、北斎、大観、操、球子ときりがないほどである」「やはり一度は挑戦してみたいテーマではあったので、この際、と思い私なりの富士を描いてみた」

富士をテーマにした作品を数えたら、121点あった。北斎の「富嶽百景」を越えているではないか。驟雨の向こうにそっと富士が顔を出している絵を求めた。富士は、ときには屹立する孤絶の存在だが、志賀さんの富士は庶民的で親しみやすい。「イメージとしての富士、模様と化した富士をテーマにしぼって表現」しているからだろう。
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ここ9年、「方丈記」の世界が頭から離れない。原発震災のあとには列島のあちこちで大災害が続き、去年(2019年)は台風19号でいわきも、彼の工房も水に浸かった。今年の年賀状には、人間がひとり、二輪車で山の向こうへ向かう版画が刷ってあった。私にとっては、額に入る彼の最後の「小さな宇宙」になった。

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