2020年2月4日火曜日

映画「ガラスのうさぎ」中・<平空襲>

「ガラスのうさぎ」の上映が終わり、原作者・高木敏子さんのインタビュー動画を見たあと、いわきロケ映画祭実行委員会の緑川健代表と私が対談した。
 昭和53(1978)年秋、『ガラスのうさぎ』を出版したばかりの高木さんから、いわき市役所に“勿来のおばさん”に会ってお礼をしたい、という手紙が届いた。広報広聴課長から耳うちされて記事にした。当時のいわき民報や広報いわきの記事=写真上=を読み返して、あれこれ思い出した。それを話した。平空襲にも触れた。

『ガラスのうさぎ』の主人公は東京大空襲で母親と2人の妹を失う。そのとき、平でも空襲があった。なぜ同じ日に? 10年ほど前、素朴な疑問がわいて、『米軍資料 日本空襲の全容 マリアナ基地B29部隊』(小山仁示訳/東方出版)と復刻版の『日本の空襲1 北海道・東北』(日本の空襲編集委員会編/三省堂)を読んだ。

さらに今回、紺野滋・元福島民友論説委員の労作『米英軍記録が語る福島空襲』(歴史春秋出版社、2016年)=写真下=を参考にした。同年齢の紺野氏は若いころ、いわき支社に勤務した。サツ回りが一緒だった。その縁で『福島空襲』のいわき関係の人間の取材では、2、3回、問い合わせがきた。紺野氏の本をテキストにして話した。
 B29による平空襲は、昭和20(1945)年3月10日、7月26日、同28日の3回。3月10日の攻撃目標は東京市街地、7月26日は長岡市、同28日は青森市街地だった。機体の不調、飛行条件、搭乗員の過失などで指示された目標を攻撃できない場合、臨機に目標を定めて投弾することがある。「ターゲット・オブ・オポチュニティ」(臨機目標)という。3回の平空襲はいずれもこれだったらしい。

3月9日夜、米軍のマリアナ基地群を飛び立ったB29爆撃機325機は、日が替わった真夜中の10日午前零時過ぎから、東京の市街地に焼夷弾の雨を降らせる。その同じ時間帯に風に流されたかして3機が鹿島灘方面から平市街地上空に侵入し、焼夷弾を投下した。平西部地区の紺屋町・古鍛冶町・研町・長橋町・材木町などで家並みが炎に包まれ、16人が死亡した。

 7月26日朝、長岡攻撃に向かったB29が曇天で引き返し、平第一国民学校(現平一小)に模擬原爆を投下する。校舎が倒壊し、校長・教師の3人が死亡した。さらに7月28日深夜、青森空襲に向かったB29が3機、機器のトラブルで引き返し、平に大量の焼夷弾を投下して、平駅前から南の田町・三町目・南町・堂根町などが焼き尽くされる。

 紺野氏は書く。「平市は太平洋に面してB29の侵入、帰還ルートにあり、大きな鉄道の駅周囲にまとまった市街地が広がっていた。このため軍事目標がなくても、原爆投下部隊を含め第一目標が外れた場合の格好の代替目標にされ、無差別攻撃を受けてしまった」「『通り魔』被害だった」

米軍側の報告書を読み解いた紺野氏によると、平は「工業地区」、爆発する平一小の写真には「兵舎地域」の書き込みがあった。ずいぶんいい加減な報告だ。いや、「臨機目標」などというものは、はなからそんなものだった? 「投下機にとって模擬原爆がいかに建物を破壊したのかという評価が重要であり、目標を『兵舎』や『工業地区』、『市街地』と見たままに報告しても、さして問題はなかった」

第一目標からそれたとき、たまたま目に入った市街地に焼夷弾をばらまいて、兵舎だった、工場地帯だった、などと言いつくろうことができてしまう。それがまかり通るのが「現場の戦争」なのだろう。正義とか大義とかとは無縁に、ただただ戦争は兵士の倫理観と想像力をマヒさせる。爆弾を落とされた方はたまったものじゃない。

対談では、車から空き缶や空き瓶をポイ捨てするのと同じ感覚で、B29が帰りに模擬原爆や焼夷弾をポイ捨てした、ばかばかしい、ふざけている、といった意味のことを話した。どこかの国の大統領のニュースを見聞きするたびに、戦争だって取引材料のひとつ、後先考えず、思いつきでやってしまうのではないかと、暗澹たる思いがぬぐえないこのごろ――。

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