2020年2月10日月曜日

写真家ソール・ライター

 きのう(2月9日)のEテレ日曜美術館は、アメリカの「写真家ソール・ライター いつもの毎日で見つけた宝物」だった=写真下(「NHKびじゅつ委員長」名のツイッターから)。
 ライター(1923~2013年)は「ニューヨークの街角で、誰に見せるでもなく“日常にひそむ美”を撮り続けた」(番宣)。たとえば雨の日、濡れた窓越しに人影の映った作品がある。「雨粒に包まれた窓の方が私にとっては有名人の写真より面白い」という。

 ウィキペディアなどによると、ライターはニューヨークでユージン・スミスらと出会い、写真の道に進む。1950年代からファッションカメラマンとして活躍した。ところが、80年代には一線を退き、忘れられた存在になる。それから四半世紀が過ぎた83歳のとき、写真集が出版されて世界的に脚光を浴びる。

なんだかいわきの作家吉野せい(1899~1977年)を思い出させるような人生だ。せいは10代で中央から文才が注目されたが、結婚を機に筆を置いた。それからほぼ半世紀、夫が亡くなったあと、70歳を過ぎて再び書き出し、作品集『洟をたらした神』で田村俊子賞と大宅壮一ノンフィクション賞を受賞する。

 写真家ライターは、この番組を見るまで全く知らなかった。番組で紹介された作品だけでも面白い。ニューヨークや東京とは違った地方都市だって、写真的な面白さには事欠かない。「いつもの毎日でみつけた宝物」「日常にひそむ美」。ライターの写真哲学に触れて、久しぶりにバイブレーション(共振)がおきた。

 地域新聞の記者をしていたときの経験からいうのだが、ニュースは本来、日常の暮らしの中に埋もれている。それを掘り起こして社会に伝えたときに初めてニュースになる。それをライターに引き寄せていえば、「いつもの毎日でみつけるニュース」「日常にひそむニュース」をものにするかどうか、ということになる。

 その延長で車で外出するとき、必ずデジカメを持つ。夏井川の堤防や渓谷の森で出合った風景、花、キノコなどを撮る。助手席にカミサンか小6・小4の孫がいれば、カメラマンになってもらう。夕焼け、雲、雨、街路樹、道行く人……。被写体はいつでも、どこにでもころがっている。ライターほどの技術も考えもないが、「写真もまた一期一会」「日常こそ面白い」という自覚はある。

若い世代に「ソール・ライター風」という言い方があるそうだ。スマホで誰もが即座にカシャ、カシャとやる時代。日常にころがっている「美」を大胆に、自然の質感を大切に、といったライターのやりかたで記録する――それをいうのだろう。
私にもライター風の写真があった。夏の雨の日、スーパーの駐車場でカミサンの帰りを待っていたとき、雨に濡れたフロントガラス越しに自販機がおぼろに見えた=写真上。デザイン的な面白みを感じてパチリとやった。ここを人が通っていれば、まさにライターを思わせる構図だ。

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