原作では、終戦から半年後の昭和21年2月、家が空襲で焼けたために一時寄留していた宮城県から常磐線の汽車で帰京する途中、一夜の宿と食事の世話をしてくれた“勿来のおばさん”が登場する。映画では、「たいらー、たいらー」の駅のアナウンスと、平駅止まりになってとまどう満員の乗客のシーンがあるだけだったが、それはしかたがない。原作は原作、映画は映画だから。
昭和53(1978)年秋、『ガラスのうさぎ』を出版したばかりの高木さんから、いわき市役所に尋ね人(“勿来のおばさん”のこと)の手紙が届いた。いわき民報の市役所担当記者だった私が、広報広聴課長に耳うちされて記事にした。当時、30歳。それから40年余りたった今年(2020年)、上映会に合わせてそのときの話をした。
開演は午後1時。30分前には開場した。知り合いが十数人やって来た。なかにT・Y子さん(1928年~)がいた。知り合いのK・S子さんが施設に入居しているTさんを誘ったのだった。
Tさんを見たとたん、Tさんがあのころ、東京にいたことを思いだす。Tさんの戦争体験記も思い浮かんだ。Tさんは東京大空襲の少し前、女学校を4年修了のまま繰り上げ卒業し、東大の伝染病研究所の研究助手養成所にいた。高木さんよりは4歳年上になる。
今から26年前の平成6(1994)年、いわき地域学會は創立10周年の節目の年を迎えた。翌7年は敗戦から満50年。それらを記念して、会員から「いわきの戦中・戦後生活史」という仮題で原稿(手記)を募った。集まった手記はやがて、いわき地域学會図書18『かぼちゃと防空頭巾――いわきの戦中・戦後を中心に』というタイトルで発刊された。私が編集を担当した。その手記のなかに、Tさんの<私の戦争体験>があった。
高木さんの『ガラスのうさぎ』も、初めは<私の戦争体験>という小冊子だった。高木さんは昭和20(1945)年3月10日未明の空襲で母親と2人の妹を失い、父親を終戦間際の機銃掃射で亡くした。4人の三十三回忌の供養と、子どもたちに戦争の恐ろしさといのちの尊さを知ってほしいという思いから、<私の戦争体験>をつづり、関係者に配った。そのあと出版の話が舞い込み、加筆して、現在も読まれ続ける単行本が生まれた。
Tさんの<私の戦争体験>に戻る。家は東京南部にあった。昭和18年、「事態は急速に変化していった。私の家では兄が志願兵として海軍へ出征した。商売は材料不足と父の徴用で開店休業の状態になっていたが、繁華街の家並みは建物強制疎開で取り壊しになり、少し奥の住宅地へ引っ越した。地方へ疎開するため家を手放す人も多く、空き家は安くいくらでもあった」
Tさんは会場ロビーに展示されていた焼夷弾の容器にも思い出を記している。「焼夷弾の場合は、火叩き棒で家を守るのだが、大量の焼夷弾を近所中に落とされた時は結局手に負えなく、燃え上がり大火になるわけだが、幸い羽目板を焦がした程度で助かった。道路に不発弾が束になってささっているかたわらを通っても別にこわいとは思わなかった」
2年前まではときどき友達の車に同乗して、Tさんがわが家へ遊びに来た。読んでいる小説の話になったこともある。「『焼け跡のハイヒール』っていうタイトルなの」「出版社は?」「祥、なんとか。あとで電話するね」。後日、電話がかかってきた。盛田隆二『焼け跡のハイヒール』(祥伝社)だった。
図書館にあったので、ホームページで「貸出中」が消えたのを見て借りて読んだ。本の帯の惹句を引用する。「焦土と化した東京で出会い、戦後を生き抜いた両親。二人は何を見て、いかなる人生を歩んできたのか。戦前、戦後から平成へ。百年史を辿(たど)った先に小説家がたぐり寄せた、はかなくも確かな一条の光」。Tさんの自分史と重なる物語だ。
Tさんとは『焼け跡のハイヒール』以来の対面だった。少し体調を崩しているようだが、知的好奇心は90歳を過ぎてもなお健在だった。
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