そのなかで、日本はおととい(3月11日)、東日本大震災から10年目の節目の日を迎えた。政府の追悼式は中止され、福島県の追悼復興祈念式は、知事ら5人だけの出席に抑えられた。1人は遺族代表の川内村・石井芳信さん(元同村教育長)だった。県紙で知った=写真。
石井さんは村役場のOBだ。いわき地域学會が発足して間もなく、村から『川内村史』の編纂事業を受託した。村側の担当者が石井さんで、編纂事業が終わってからも、会えば近況を伝えあってきた。同村に移住した陶芸家夫妻と、お互いに昵懇だったことも大きい。
10日前、川内村で行われた陶芸家の葬式で一緒になった。当然といえば当然だが、県の追悼復興祈念式の話は出なかった。3年前には政府主催の追悼式で、福島県の遺族を代表して追悼の言葉を述べている。今度も同じように母親への思いを伝え、生き残った者の責務を語った。
「私の住んでいる川内村は(略)東京電力第一発電所の事故のため全村避難を余儀なくされました。/私の母は、震災当時、原子力発電所のある大熊町の病院に入院しておりましたので、当然避難を強いられました」
「数日間、入院先の病院から何の情報も入らず、安否を心配していましたが、いわき市のある高校に移送されたらしいとの情報が入り、妻と駆けつけました。/そこには白い布に覆われ、変わり果てた母の姿がありました。妻が亡き母の顔に頬ずりし、涙を流していた様子は、今でも忘れることができません」
石井さんは退職後、ひとり寂しく亡くなった母親の供養のため、四国八十八か所のお遍路巡りをしたという。母親の誕生日でもある平成最後の日の4月30日には、母親が好きな「魚の煮付け」と「けんちん汁」を仏壇に捧げたともいう(福島県では豚汁をけんちん汁という。味噌仕立てだ。わが家でも冬場、ときどきこれが出る)。
村の現況にも触れた。若い人が避難先で職に就いたり、子どもたちが避難先の学校に馴染んだりして、村に戻らないケースが多くなった。昔の村の姿には程遠いが、それでも「みんなで力を合わせ、復興と再生を進めていく」。
同じ新聞には「センバツ初の中止/新型コロナ影響 磐城、出場果たせず 高野連」「聖火出発式
無観客検討 組織委」「影響 計り知れない/新型コロナ行事自粛延長 県内観光関係者ら」。きょうも「景況感2期連続マイナス/1~3月期全国企業 新型コロナ影響」「東証、1万9000円割れ/新型コロナ
米対応に失望感」といった見出しが躍る。
地域社会では、行事の中止・延期や学校の休校、外での飲食自粛などがもろに経済を直撃する。ほんとうは震災で亡くなった人々に思いをめぐらしていたいところだが、現実はそれを許さない。地域の片隅で暮らす私でも、所属する非営利組織の1カ月先、2カ月先をあれこれ思い悩むことが多くなった。
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