丘は田村郡小野町生まれの郡山育ち、古関は福島市出身。歌詞は会津の沼尻軽便鉄道に材を取ったものだという。作詞・作曲者と歌詞の背景を知ってからは、「高原列車は行く」は私のなかで一番の<福島の歌>になった。
来週月曜日(3月30日)、古関と妻をモデルにした朝ドラ「エール」が始まる。古関・丘コンビのほかに、軍国歌謡「暁に祈る」は、作詞が同じ福島出身の野村俊夫、歌が本宮出身の伊藤久男と、福島県トリオで大ヒットした。同じ軍国歌謡「露営の歌」は伊藤だけでなく、いわき出身の霧島昇も歌手として“競作”している。朝ドラには福島県ゆかりの作詞家・歌手も登場することだろう。
今まではそれぞれの人の仕事をバラバラに見ていた。が、古関を軸にしたつながりとしてとらえたらどうなるか。まずは古関が生まれ育った時代の、福島県内の文化的状況から――。
大正時代が始まると、詩人山村暮鳥がいわき(旧平町)にやって来る。詩の雑誌を発行するなどして、いわきの詩風土を耕した。いわきは全国でも屈指の文学運動の拠点になる。そこから詩人の三野混沌(1894年生まれ、以下同じ)、猪狩満直(1898年)、草野心平(1903年)、作家の吉野せい(1899年)らが育った。
これに対し音楽(歌謡曲)組は、生まれが野村1904年、古関1909年、伊藤1910年、霧島1914年、丘1917年と、混沌らよりおおよそ一回り若い。
いわき地方の文学運動は県内他地区にも影響を与えたにちがいない。中通りの歌人が暮鳥とのつながりで詩誌に寄稿することもあった。野村と丘も若いときには詩を書いた。そんなことを頭におきながら、図書館から古関の評伝など=写真=を借りてきて、“おこもり”のひまつぶしをしていたら、ある“仮説”が思い浮かんだ。
日本でラジオ放送が始まったのは大正14(1925)年。いわき組の最年少の草野心平はこの年、22歳。すでに詩人としての骨格はでき上がっている。21歳の野村はともかく、丘はそのときまだ8歳。新聞・雑誌だけの「読むメディア」と、それらにラジオ、そして蓄音機(レコード)が加わった「読む・聴くメディア」の環境の違いが、後発の若者たちを歌謡(大正時代に起こった童謡運動も含む)へと向かわせた一因ではなかったか。
それと、西條八十の存在。フランス帰りの詩人は関東大震災を機に、作詞家の道を歩む。丘が弟子入りしたように、文学を志す若者のなかには西條の磁力に吸い寄せられる者もいた? レコード、ラジオ放送と西條の影響という“仮説”を証明できたらおもしろい。
1 件のコメント:
四倉出身の作詞家・東條寿三郎をお忘れなきよう・・・・
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