東京大空襲はこの年の3月中旬、日本の4大都市(東京・名古屋・大阪・神戸)に加えられた5回の夜間・低高度・焼夷弾攻撃の最初のものだった。死者・行方不明者は約10万人といわれる。平では西部地区の紺屋町・古鍛冶町・研町・長橋町・材木町などが炎に包まれ、16人が死亡、8人が負傷した。
平がなぜ狙われたのか、はよく分かっていない。3月10日の攻撃目標は東京市街だった。機体の不調、飛行条件、搭乗員の過失などで指示された目標を攻撃できない場合、臨機に目標を定めて投弾することがある。「ターゲット・オブ・オポチュニティ」(臨機目標)という。これだったのではないかと、研究者はみる。
平がなぜ狙われたのか、はよく分かっていない。3月10日の攻撃目標は東京市街だった。機体の不調、飛行条件、搭乗員の過失などで指示された目標を攻撃できない場合、臨機に目標を定めて投弾することがある。「ターゲット・オブ・オポチュニティ」(臨機目標)という。これだったのではないかと、研究者はみる。
今年(2020年)2月2日、いわきロケ映画祭実行委員会がいわきPITで「ガラスのうさぎ」の上映会を開いた。映画のあとのトークショーで、原作に出てくる「勿来のおばさん」と平空襲について話した。ロビーには、防空頭巾と平空襲で投下された焼夷弾の空筒=写真上1=が展示された。
この空筒が、降下する焼夷弾のイメ―ジとなって頭に焼き付き、東京大空襲関係の本を読み続けている。焼夷弾が落ちたときの様子は、落とされた側の人間の気持ちは――。
前にも書いたが、女子学院(東京・千代田区)は中学3年生を対象に、「戦争体験聞き書き学習」を夏休みの課題にしている。15年前の東京大空襲・終戦から60年の節目の年に、東京大空襲に関する16編を選んで『15歳が聞いた東京大空襲――女子学院中学生が受け継ぐ戦争体験』(高文研)を出版した。そこに、そのときの様子が生々しく再現されている。
「突風にあおられた炎は蛇の舌のよう」「炎の塊が火山爆発のように降り、目を焦がします。ボワッ、猛烈な音を立てて火の壁が立ちはだかることもありました」
「爆風のために燃えているものはすべて空に舞い上がり、飛んできて人や物につき、それがまた飛ばされ空に舞い上がり、ものすごい速さで四方八方へ飛んでいく。何枚もの布団が火がついたまま、ぱーっと空に舞い上がり、地上のあちこちに急降下し、逃げていく人々や持ち物に襲いかかる」
統計的な数字ではない、個別・具体の聞き書き、それを小説風に組み立てているために、“火炎地獄”の様子がありありと伝わってくる。
B29のパイロット、チェスター・マーシャルの『B29日本爆撃30回の実録』(高木晃治訳=ネコ・パブリッシング刊)には、焼夷弾を落とした側の様子が描かれる。「飛行機が投弾区域に入ると、一帯は真っ昼間のように明るかった。火の海に近づくにつれ、指定区域全体が陰鬱なオレンジ色の輝きに変った。私は、前方の飛行機から投下された焼夷弾が地を打つ光景を見て息を呑んだ」
「焼夷弾は、地面に当たった瞬間、沢山のマッチを一度に擦ったように見え、何秒もしないうちに、その小さな焔の群れが集まって、単一の大きな火焔の塊となるのだった。私たちは、なめずる火の先端あたりに荷を一どきに投下して、湧き起こる煙の雲の中に突っ込んで行った」
上空でも、火焔は激烈だった。「燃えさかる火で起こった下からの熱風による強烈な上昇気流に機体が持ち上げられ、極度に大きいGのために座席に引きつけられて身動き一つできなくなった」
平空襲の犠牲者16人も、死因は焼死・窒息死だった。一家8人と家政婦の合わせて9人が亡くなった材木商の櫛田さん一家と懇意にしていた長橋町・性源寺住職渡辺則雄さんの手記が、昭和48(1973)年3月10日付のいわき民報に載る=写真上2。
寺にも焼夷弾が降った。「当時堂の一部を寮に開放し、12、3人の少年工が寝泊まりしていた」ので、屋根の火の粉を消すように頼み、「私は3人の少年を連れて、櫛田宅にかけつけたのです。道路の真ん中は両側が燃えていても、まだ通ることが出来た。行って見ると門は燃えてくずれ落ちそうだった」。一家は自宅のかたわらに設けた防空壕に避難して焼け死んだ。
渡辺さんは、「平の戦災記念日がまたやって来た。3月10日がめぐって来るつど、後悔の念にさいなまれる」と書きだした手記を、こう締めくくっている。一家の遺体を棺桶に入れて「私がリヤカーを引き、少年たちに後を押させてどう哭しつつ、火葬場に運んだのであった。/嗚呼、心痛む3月10日がめぐって来た」。読むたびに、胸中に“火焔地獄”が広がる。
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