山では雪になり、渓谷から平地にかけては雨、ときにみぞれになった。ツクシと雨粒を見ていると、金子みすゞの詩「積もった雪」が思い浮かんだ。「上の雪/さむかろな。/つめたい月がさしていて。//下の雪/重かろな。/何百人ものせていて。//中の雪/さみしかろな。/空も地面(ぢべた)もみえないで。」
雨粒がツクシの頭を直撃する。ツクシは痛くないか。頭にも茎にも雨粒が付いている。重くないか。雨粒は、早く地面に降りたいのに、宙ぶらりんになっている。風よ、振り落としてやってくれ――。つい擬人化したくなるのは、還暦を前にみすゞの詩を知り、集中して読んだことがあったからかもしれない。
みすゞの詩からは、弱く、小さく、遠くにあるものたち=「エン・ジャク・ショウ(遠・弱・小)」の世界の物語が見えてくる。小さなツクシと雨粒にも宇宙が宿っている。
そんな感傷にひたったあと、平地へ戻った。渓谷を抜けると、扇状地が広がる。その山岸に小川諏訪神社がある。シダレザクラが満開だった。カミサンが見たいというので寄り道したが、雨が降っている。新型コロナウイルスの問題もある。駐車場に車を入れて、車中から本殿前の花を見て終わりにした=写真上。
例年なら行楽客でごった返しているのだが、地元でも受け入れ態勢を整えているのだが、新型ウイルスという「見えない敵」には、密閉・密集・密接を避ける“ダンミツ(断・密)”で自衛するしかない。
すべては「一期一会」。生身の脳ではもう記憶の賞味期限が短くなっている。それをカメラが代行する。記録することで、かろうじて記憶がよみがえる。先日アップした渓谷のカモシカは、車を運転するとき、必ず助手席にカメラを置いておくので、撮れた。
助手席にカミサンがいたり、孫がいたりするときには、撮影を頼む。日常こそ最高の被写体。カミサンと孫が撮った写真をブログに使ったこともある。この年(71歳)になって写真撮影が面白くなってきた。ダンミツの楽しみでもある。
きょうも未明に雨が降った。これから庭に出て雨粒を抱いた花でも眺めてみるか。
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