2020年4月5日日曜日

朝ドラ「エール」は週5日

 朝ドラの「エール」=写真=が始まって1週間。きのう(4月4日)は週5日の放送(「働き方改革」でそうなった)が終わって最初の土曜日、どんな15分になるのかと思ったら、5日間の振り返りだった。なるほど、5日間を見逃した人には物足りないかもしれないが、ちょっとしたダイジェスト版にはなっていた。
「エール」は福島市出身の作曲家古関裕而(1909~89年)夫妻をモデルにした物語だ。古関は大正~昭和初期に青春を生き、プロの音楽家としての道を歩み始める。

第1週はその生い立ち編だった。同じ地域に住む小学生3人、古山裕一、村野鉄男、佐藤久志の人となりが浮き彫りになる。モデルは順に作曲家古関裕而、作詞家野村俊男(1904~66年)、歌手伊藤久男(1910~83年)で、3人はのちに歌謡曲の世界で「福島三羽ガラス」といわれるようになる。

ガキ大将の鉄男は「古今和歌集」を読む文学少年でもある。いじめられっ子の裕一を突き放しながらも見守っている。「やめろ、その笑い。悔しいことを笑ってごまかすな。このずぐだれが」「初めて本気で声出したな。勘違いすんな、その声に免じて助けてやっただけだ」。人の心を、物事の本質を鋭く見抜く詩人の感性が光る。

大金持ちの息子の久志も、「大正デモクラシー」がどうのこうのと、ませた口をきく。裕一が作曲に興味を持ち、同級生から請われるままに曲を付けてやる。「君、気を付けろよ、急に人気者になったから、妬むやつはいるぜ」。子どもの世界もまた社会の縮図であることを知っている。

視聴者として、ドラマはドラマ、事実は事実と分けてはいるつもりだが、今回は特に、フィクションと史実が交錯してしまう。同時代のいわき地方の文学史を調べていると、当時の福島県内の文化状況が視野に入ってくる。その文脈のなかで古関の自伝・評伝その他を読んだのが大きい。

浜通りのいわきでは文学が、中通りの福島では音楽が若者を魅了したのはなぜか。2週間前にも書いたことだが、日本でラジオ放送が始まるのは大正14(1925)年。それと前後して、蓄音機とレコードが地方にも普及し始める。童謡運動も広まる。少年期と、このニューメディア・運動の有無が関係していないか。

つまり、新聞・雑誌の「読む(書く)メディア」だけだった大正前半と、「聴く(歌う・演奏する)メディア」が加わった大正後半~昭和初期のメディア状況の違いが、いわきでは文学、福島では音楽になった――。

その“仮説”を補強するのが、裕一の父親が買い込んだ蓄音機とレコード。ドラマのしょっぱなに登場する。裕一はレコードを聞いて音楽に魅せられる。音楽教育に力を入れている学校の担任もまた裕一を後押しする。

ついでながら、裕一が手にした『作曲入門』の著者は音楽界の大御所・小山田耕三。モデルは古関が敬愛した山田耕筰だ。山田の父親は旧福島藩板倉家の家臣(医師)とくれば、彼も間接的に福島関係者といえる。

先日、新型コロナウイルスで急死した志村けんさんが小山田耕三役を演じているという。5月にはそのまま放送されるらしい。その後、どうするかはわからない。撮影もコロナ感染を避けて一時休止になった。

おまけを一つ。「ずぐだれ」という言葉は初耳だった。「意気地なし」という意味では、「ずぐなし」の方が耳にはなじんでいる。

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