私が生まれて初めて覚えた歌謡曲は、昭和29(1954)年発売の「高原列車は行く」だった。そのとき、6歳。
同じころはやった歌謡曲に鶴田浩二「街のサンドイッチマン」(昭和28年)、春日八郎「お富さん」(同29年)「別れの一本杉」(同)、菅原都々子「月がとっても青いから」(同)、宮城まり子「ガード下の靴みがき」(同)、三橋美智也「リンゴ村から」「哀愁列車」(同31年)などがある。
小学校に入学したのは同30年。そのころ、家(床屋)のラジオから毎日、流行歌が流れていた。なかでも「高原列車は行く」はなぜか体で覚えている。
阿武隈の山里では、子どもが小学校に入学するとき、親が近所の子どもを招いて祝いの会を開いた。大人の宴会と同じく、小さな紳士・淑女が主役の子どもを囲んで食事をする。
1歳年下の女の子のお祝いの会で――。こちらは1年生から2年生になるときだ。主役の女の子の母親におだてられて、アカペラ(当然だが)で「高原列車は行く」を歌った。きのうのことは忘れても、このときのことはたぶん死ぬまで覚えている。歌う快感と喝采(かっさい)が脳裏に刻まれた。
その延長線上にあるのかもしれない。社会人になって飲み会になり、なにか1曲を――といわれたら、陸上競技をやっていたノリで手足を大きく動かしながら、「高原列車は行く」を歌う。
作詞は田村郡小野町出身の丘灯至夫、作曲は福島市出身の古関裕而、歌は岡本敦郎だ。丘は毎日新聞記者として福島支局に勤務していたころ、古関家の2階に下宿したというエピソードがある(古関裕而の自伝『鐘よ鳴り響け』)。
朝ドラの「エール」で先週(11月第2週)、主人公の古山裕一が「高原列車は行く」を作曲するシーンがあった。弟の浩二が農業会の歌詞「高原列車は行く」を裕一に渡して作曲を依頼する。できた曲が流れる。つい体を動かしながらハミングした。
同じ週の「うたコン」は「ぶらり!秋のうた旅」で、「エール」にもチラッと出演した演歌歌手徳永ゆうきともう1人、辰巳ゆうとが「高原列車は行く」を熱唱した=写真。
今週(11月第3週)は、伝説のラジオドラマ「君の名は」の歌と放送シーンから始まった。私は記憶にない。が、カミサンは小学校3年生。「君の名は」の時間になると、居間でラジオを聞く母親に店番(米屋)を頼まれたそうだ。「エール」から曲が流れた瞬間、歌い出したのには驚いた。やはり体で覚えているのだろう。子どものころの年の差は大きい。
「エール」は来週(11月第4週)で終わる。4月の放送開始以来、コロナ禍の撮影中断、異例の再放送があったものの、県民の間に過去のご当地ソングや古関メロディーへの興味・関心が広がった。
いわきのご当地ソングでいうと、「平市歌」の曲の発掘が新聞記事になった。草野心平が書いた「内郷小唄」を紹介する若い仲間の文章も読んだ。流行歌やご当地ソングは地域と家族の歴史、あるいは自分史を掘り起こすいい材料になる――そのことをあらためて実感した。
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