2020年11月26日木曜日

無能上人のこと

        
 11月24日の福島民報1面コラム「あぶくま抄」は、江戸時代中期に生きた浄土宗名越派の名僧・無能上人(1683~1718年)を取り上げていた=写真。

今年(2020年)1~9月に生まれた赤ちゃんの名で最も多いのが、男の子では「蓮」(主に「れん」)、女の子では「陽葵」(「ひまり」「ひなた」)だった。男の子の名前にひっかけて無能上人の偉業と法名「興蓮社良崇」を紹介している。

 無能上人を取り上げたことには拍手を贈りたい。が、いわきから見ると、また違った紹介の仕方がある。拙ブログで何回か取り上げているので、それを整理して再掲する。

歴史家の故佐藤孝徳さん(江名)が平成7(1995)年7月、『浄土宗名越(なごえ)派檀林 專称寺史』を出版した。いわき民報に短期的に連載したものをベースにして本篇を構成し、資料篇、論文篇を新たに加えてハードカバーの箱入り本に仕上げた。開山600年の記念誌でもあった。

孝徳さんから校正を頼まれた。それで、いわき市平山崎にある同寺が、学僧がひしめく檀林寺であると同時に、東北地方に200以上の末寺をもつ大寺院であることを知った。

 参道入り口、向かって右の石柱に「奧州總本山専稱寺」、左の石柱に「名越檀林傳宗道場」とある。かつて、特に江戸時代には東北に開かれた「大学」だった。奥州各地から若者が修行にやって来た。無能も、ここで学んだ。

 無能は修行を終えたあと、山形の村山地方と福島の桑折・相馬地方で布教活動を展開し、35歳で入寂するまで日課念仏を怠らなかった。淫欲を断つために自分のイチモツを切断し、「南無阿弥陀仏」を一日10万遍唱える誓いを立てて実行した。そういうラジカルな生き方が浄土への旅立ちを早めた、と私は思っている。

無能は、江戸時代中期には伴嵩蹊が『近世畸人伝』のなかで取り上げるほど知られた存在だった。同書は今、岩波文庫で読むことができる。

行脚中に投宿したとき――。若くハンサムな無能に家の娘が一目ぼれする。夜、忍び込んで後ろから無能を抱いたが……。寝ずに座ったまま念仏を唱えていた無能は動じない。陽炎(かげろう)が木を動かそうとするようなもの、あるいは蚊が鉄牛を刺すようなものだった。娘の欲望は徒労に終わる。

無能のほかに、よく知られたところでは、貞伝上人(1690~1731年)が専称寺で学んだ。貞伝は津軽の人。今別・本覚寺五世で、遠く北海道・千島まで布教し、アイヌも上人に帰依した。太宰治が「津軽」のなかで貞伝上人について触れている。

ほかには、幕末の良導悦応上人こと俳僧一具庵一具(1781~1853年)がいる。一具は出羽に生まれ、専称寺で修行し、俳諧宗匠として江戸で仏俳両道の人生を送った。この俳僧を調べている。

夏井川の堤防を通りながら対岸の専称寺を眺め、学寮(修行僧の学問・宿泊所)が何棟も建っていた江戸時代の盛況ぶりを想像する。それはそれで「寂しい勉強」を続ける励みになる。

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