きのう(2月13日)の深夜11時7分ごろ、寝入りばなを起こされた。最初は静かに、やがて横にも縦にも激しく揺れる。しかも長い。寝床を飛び出しながら、10年前の「6弱」の揺れと大津波を思い出した。そのときの衝撃に近い。
揺れが収まったあと、テレビで状況を確認する。震源は福島県沖、最大震度は6強だが、いわきは5強。津波の心配はない。家の中は――。階段に積み上げた本が崩れ、2階の本や書類が一部散乱したほかは、軽いものが上から落下した程度だった。3・11の余震だという。いやはや、いまだに現在進行形だ。
◇
さて――。週末、夏井川渓谷の隠居へ通うようになっておよそ四半世紀。途中、平・平窪から小川町の平地で二ツ箭山(710メートル)と出合う。単純に計算しても、この四半世紀で1250回(帰りも入れればその倍の2500回)は、二ツ箭山と対面したことになる。
青空の二ツ箭、霧の二ツ箭、雪の二ツ箭、雲の二ツ箭……。たびたびカメラを向けてきたが、2月10日の二ツ箭山には、なぜか今までになく心が引かれた。JR磐越東線の跨線橋のてっぺんから、後続車がないことを確認して山容をカメラに収めた=写真。
早春の二ツ箭山を撮らなかったわけではない。が、山の稜線、なかでも岩塊(男体山・女体山)がこんなにくっきりと目に飛び込んできたことはなかった。ずっと向き合っていたい。そのくらいにキリッとした表情だった。
二ツ箭山の地質学的な時間を思う。二ツ箭断層が動いたのは、以前は「新第3紀の後半」と言われていたが、今は「第4紀の後半」と評価が変わったらしい。つまり、「2303万年~258万年前」から「258万年前~現代」に近づいた? 断層を境にして南側がずり落ち、その断層面が山の南西側に残っている、という。
10年前の東日本大震災では、山頂近く、二つあるギザギザの一つ・女体山の岩の一部が剥落した。4月11、12日と、いわきの西部を震源とする6弱の直下型地震が連続した。このとき、山腹で山崩れが起きた。10年たった今は、崩落現場は修復され、女体山も太陽と風雨にさらされて、なにごともなかったように灰色の岩塊を見せている。
二ツ箭山のふもとで育った詩人の草野心平は、亡くなる何年か前、いわき市立総合磐城共立病院(現いわき市医療センター)に入院し、ふるさとの山を遠望する。以下は拙ブログからの抜粋――。
心平は8階から二ツ箭山をながめて詩を書いた。いわきの総合雑誌「6号線」第20号(1984年)に発表した「双眼鏡――ふるさとにて」で、東村山市の自宅から宅配便で双眼鏡を送ってもらった。
「狙ひを決めた遥か北北東の二ツ箭山が。/二つに割れた大花崗岩(オホミカゲ)の山巓が。/白ちやけたザラザラの肌も見事に。/よく見える。」「平窪の石森山から。/改めてオレは少年時代の山山を見る。/あれは猫鳴きかな。/二ツ箭から離れた左は。/水石山。/阿伽井嶽。/そして湯の嶽。/好間の菊茸山はどの邊かな。」
病室(個室)のベランダから双眼鏡でふるさとの山を眺めながら、自分の来し方を振り返り、恐竜がのし歩いていたいわきの太古を想像する。「奇妙なノスタルヂヤ」の時間を過ごしていくぶん疲れた心平はやがて個室に戻り、「黒い柔かいソーファのなかにしばらくぼんやり沈んでいた」というところで詩が終わる。
◇
心平の弟・天平は晩年、ふるさとの山についてこう述べた。「周囲の山は遠からず近からず、北側は北画系の様な嶮しい山で、南側は南画風の恰度大和の様な穏かな眺めです。人はこの南側の方の景色を見た時、那須へ来た様だと云ひます」と書いた。「北画系の険しい山」とはこの二ツ箭山のことだ。
それだけではない。ここはキノコの研究フィールドでもある。学術的に貴重なキノコが見つかっている。そんなことにも思いがめぐるほど、二ツ箭山は凛(りん)としていた。きょうはどうか。
0 件のコメント:
コメントを投稿