2021年2月26日金曜日

現場・現在・現役

                     
 司馬遼太郎さんがこんな意味のことを書いていた。何日か旅をして原稿を書かなかったら、感覚が鈍っていた。あの大作家でさえそうなら、田舎の小さな新聞社のコラム書きはなおさら、ではないか。とにかく書き続けることだ、と自分に言い聞かせたものだ。

 会社を辞めたとき、これで締め切りから解放されると、せいせいした気分になった。ところが、1カ月が過ぎ。2カ月がたち、3カ月目に入ると落ち着かなくなった。書きたい思いがわいてきて、若い仲間の助けを借りてブログを始めた。以来13年間、感覚を鈍らせないためにほぼ毎日書き続けている。

 書くためには現場へ行かないといけない。なにを書いたらいいかは現場が教えてくれる。現場は至る所にある。現に暮らしている地域社会がそうだ。日曜日に出かける夏井川渓谷の隠居と小集落、周囲の自然がそうだ。隠居や街と自宅との往復コースがそうだ。書く材料には事欠かない。

 記者時代は「傍観者」としての意識が強かった。が、今は一人称の「私」を主語にして書いている。「当事者」としての発信を心がけている。それでも、「観察」し、「記録」するやり方は、記者時代と変わらない。観察と記録の蓄積が、やがては地域を、自然を、時代を考える材料になる。

 なによりもまず「記者は考える足」でないといけない。それは現在ときちんと向き合うことでもある。今を直視し、過去を踏まえて未来につながる思考を深めることでもある。

 先日、緊急の文章依頼があった。分量としてはたいしたことはない。が、数項目にわたって書き分ける必要がある。それに基づいて展示物をつくり、配置し、公開する日が決まっている。そのモノに張り付ける文章だから、字数も決まっている。公開の日から逆算すると、締め切りは依頼があってから2日後だ。昔の若い仲間からのSOSなので、四の五の言わずに引き受けた。

 文章ができれば、それが「たたき台」になる。依頼した側も本気になって直しをかけられる。その後、何回かやりとりがあって最終校正をすませたあと、若い仲間に言った。「ブログを書き続けていたから、つまり現役のつもりで文章を書いていたから引き受けることができたんだよ。書いてなかったら、無理だった」

 現場・現在・現役――。この“三現主義”でやってきた。むろん、それがどこまでできているか、あるいはいつまで続くかはわからないが。

 この前、たまたま茶の間から庭を見ていたら、地面に赤い破片のようなものがある。よく見ると、ヒヤシンスだった=写真。さっそく花の写真を撮る。ヒヤシンスの花を眺めているうちに、ギリシア神話のヒュアキントス(ヒアキントス)を連想し、手付かずになっている宿題があることを思い出した。

 吉野せいの『洟をたらした神』に収められている短編「夢」は、ギリシア神話の「冥府の章」を読んで眠ったために見た夢について書いている。冥界への五つの流れ(川)がある、冥界の一番奥深くに底なしの奈落=タルタロスがある……。それらの注釈づくりを棚に上げたままだった。

 ヒヤシンスの花に触発されて、図書館からギリシア神話の本を借りて来た。ここは一気に「夢」の言葉を分解して注釈を加えないと――。これだって、毎日ブログを書いているからこそできる“在宅ワーク”だ。

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