画家安野光雅さんの訃報に接して以来、彼の本や絵本を読み続けている。先日は、若い知り合いから安野さんが吉野せいの『洟をたらした神』の舞台である菊竹山(好間)を訪ね、水彩画を描いていることを教えられた。
安野さんの本『読書画録』(講談社)に収められている。取り上げた本は樋口一葉『たけくらべ』から幸田文『おとうと』まで36冊。これらを読んであれこれ考えた文章に、舞台になった土地を訪ねて描いた水彩画が添えられる。
『洟をたらした神』では、その後に出版された『道』にも言及している。「白い人」が海岸にある回春園へ入院する。せいと「原さん」がかかえるようにして彼に付き添う。
「この『道』には『洟をたらした神』のときにはあまり感じなかったところの明治の文章になにか共通した、ある息苦しさがあるような気がする。しかし『道』のなかば、白い人が誰なのかを書くあたりから、ふっとその息苦しさがとれ、文章は生気をとりもどす」
この部分は、せいの文章についての“新解釈”といってもいい。この視点で『道』を読み直してみようとも思う。
それよりなにより、興味を持ったのが「菊竹山の帰りみち、遠くは阿武隈山系の山並」とキャプジョンが添えられた水彩画だ=写真上1。
安野さんは「菊竹山の麓までゆき、吉野せいの家と混沌の碑を拝してきた」。その帰りに、どこかの橋の上から好間川とその奥に連なる山々をスケッチし(あるいはカメラに収め)、独特のタッチで彩色した。
どこの橋から見たのだろう。グーグルアースとストリートビューを何度も眺めて場所をしぼり、菊竹山のそばの「沢小谷(さわごや)橋」か、その下流、菊竹山に向かって左折する直前に渡る「樋口橋」とみて、コピーを持って出かけた。
行く前は樋口橋と内心思っていたが、最初に沢小谷橋に立つと、絵の左奥にあるV字の丘の切れ目がそっくりだ。ここに違いない。そう合点して帰宅した。ところが、細部を検討すると、どうも微妙に違う。左の丘の先端と、奥にある右の丘の稜線が同じ距離感でⅤ字に見えただけのようだ。
翌朝、今度は樋口橋だけを見に行った。右岸堤防に立つと、ドンピシャだ。水彩画とほぼ同じ構図の風景が広がっていた=写真上2。向かって左、一番奥の山並みの手前に「好間のV字谷」がくっきりと見える。
『読書画録』が最初に刊行されたのは平成元(1989)年。30年以上前だ。おそらく担当編集者と一緒に平駅(現いわき駅)からタクシーで出かけ、タクシーを待たせて取材した帰り、樋口橋を渡りかけて好間川と山並みの風景に絵心を刺激されたのだ。
絵の構図から見ると、右岸の橋のたもとと交わる堤防を、上流へ5~6メートル進んだところでスケッチした(あるいは写真に収めた)のだとわかる。堤防は描かれていない。狭い堤防の底をチョロチョロ流れるというよりは、広い大地をそれなりの大きさの川が蛇行している、という感じにデフォルメ(変形)されている。
家は、今は「密集」している。当時はそれほどではなかったとしても、かなり省略して描いたのではないか。いかにも家がポツリポツリと「散在」する田舎の雰囲気を出すために。
決め手はやはり「好間のV字谷」だった。大きなVの字は好間のシンボル。そのことを、安野さんの水彩画を通して再認識した。
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