2021年2月19日金曜日

明治28年のコレラ鎮め

        
   明治28(1895)年6月、小名浜に入港した汽船にコレラが発生し、磐城衛生会はコレラ予防心得を1万枚印刷して配布した(『いわき市史 第6巻 文化』編)。衛生会は、大多数が医師、それに地方有識者が加わった組織で、行政に提言したり、小学校や芝居小屋を利用して衛生講話をしたりしたという。予防心得を配ったのもその一環だろう。

これがコレラ流行の始まりだったのかどうか。「江名・豊間・薄磯・沼之内まで虎列刺(コレラ)病が蔓延した」ため、沼ノ内に隣接する平・下高久地区で大字の有志が発起人になり、「鎮火祭式と大般若経を執り行い、大字内の安全を祈った」。同地区に住む知人からちょうだいした史料の解読コピー=写真=に、そんな意味のことが書いてある。「旧7月5日」(新暦では8月24日=土曜日・大安)と史料にあるが、その日に祈祷が行われたのだろうか。

 コロナ禍に苦しむ現代人と同様、ざっと125年前の郷土の人々もコレラの感染におびえ、予防策を講じる一方で「疫病退散」を祈願した。

予防策を指導したのは、知人の先祖で医師の松井玄卓(謹)らだ。玄卓は磐城平藩安藤家の医師だった。知人が解読した玄卓の肖像画の「履歴」から明治以後の部分を抜粋する

――私(玄卓)は明治4(1871)年、命令によって下高久村に帰農し、平町病院設立の際、西洋医術を修業した。同10(1877)年、西南戦争の際に応召して宇和島を守った。同15(1882)年9月、江名村でコレラが流行したときには、治療と衛生委員兼務を命じられた。本年(明治39年)65歳、今なお下高久で医術を開業している――

玄卓、そして明治のコレラ流行に関する記述を、『いわき市史 第6巻 文化』編の「医療」から紹介する。

松井家11代玄卓についてはこうある。「元治元年、江戸の漢法医渡辺吉郎(米沢藩医)に学び、江戸から帰り慶応3年6月藩医を命ぜられた。明治元年6月輪王寺宮(北白川宮能久親王)が会津へ下向の時は、警衛医として出張した。五人扶持、独礼次席番医で、明治2年11月15日家督を相続した」。本文に掲載の系図によると、大正3(1914)年7月18日に亡くなっている。

明治6(1873)年4月、平・一町目に「磐前県病院」ができたときには、玄卓もここで医員として勉学した(玄卓の「履歴」に「平町病院」とあるのがこれか)。

 コレラは、いわき地方では①明治12(1879)年9月、四倉で流行し、死者多数が出た②同15年、江名村にコレラが流行し玄卓が、山田村では小宮山精順が検疫に活動した③同19年には小浜で流行した――。

そのあと、冒頭に記した明治28年のコレラの流行が始まる。日清戦争に従軍した兵士や軍役夫がコレラに感染して帰還し、最初は広島で、やがて主に船と港を介して全国に広がった。

「大般若経」は「大般若経転読会(え)」の略だろう。コロナ禍の現代も災害絶滅・疫病退散・無病息災などを願って、大般若経転読会が行われている。

「安全」は予防や治療といった科学(医学)が担保するが、「安心」はそれだけではカバーできない。原発事故のときがそうだった。医学も医療技術も今ほどでなかった時代、必死に神仏に祈った先祖たちの心根を愛(いと)おしくさえ思う。

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