2021年11月12日金曜日

吉野せいのタフさ

           
 吉野せい賞の表彰式と記念講演会が先日(11月6日)、いわき市立草野心平記念文学館で開かれた。

記念講演会の講師は女優の秋吉久美子さん。詩人斎藤貢さんとの対談形式で、前半をせいの『洟をたらした神』に当て、後半を「女優という人生」について語った。

 2人は同い年だ。秋吉さんは磐城女子高(現磐城桜が丘高)の文芸部、斎藤さんは磐城高の文学部に所属していた。両校の“合同部活”で顔を合わせ、今も交流が続く。

 せいには3冊の単行本がある=写真(右下は文庫本)。ほかに、それらを収めた『吉野せい作品集』がある。

私は文庫本の『洟をたらした神』をそばに置いて作品の注釈づくりをしている。繰り返し『洟をたらした神』を読んでいるうちに、ポイントとなる文章にもなじんできた。とはいえ、感じ方、受け止め方は人それぞれ。その意味では、作品の解釈の幅を広げるいい機会になった。

詩とは本来、生活の中にある輝きやまばゆさのこと。せいはそれを文章の中で実現している。『洟をたらした神』をドキュメンタリーとして読んだが、詩ではないか、小説ではないか――秋吉さんはそう感じた。

秋吉さんが『洟をたらした神』を読んだのはこの講演がきっかけらしい。せいがいわきにいたことで、自分のなかではいわきの評価が上がったともいう。

 たとえば、本のタイトルと同じ「洟をたらした神」の最後の言葉。「厳粛な精魂の怖(おそ)ろしいおどり」には、ただのノンフィクション作家ではない、詩人の力を感じた。

 次女の死を記した「梨花」には、刻々と変化するわが子の様子を記録するタフさ、客観化してモノを見る物書きの目を感じた。

 兵舎に入った息子に会うための「鉛の旅」では、大声で泣き出す母と子の出征風景が書き留められる。「とりすました仮面をかぶって人前をとりつくろう自分たちの嘘っぱちな世間体のみえをかなぐり捨てているむきだしたままのこの母子の別れの一幕に頭を下げろよ」。ここにもせいのタフさを感じ取った。

 「頭を下げろよ」に触れて、とっさに思い浮かんだ詩がある。茨木のり子の「自分の感受性くらい」。心が乾いたり、気難しくなったり、苛立ったり、初心が消えかかったりしている理由を人のせいにするな、暮らしのせいにするな。

「自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ」と、彼女は自分に言い聞かせる。と同時に、その叱責は普遍性を帯びて社会の言葉になる。

 最後に秋吉さんは「赭い畑」に書き留められた「自分たちの生きる場所はここより外にない。世界中の空間にここより外はない」を紹介した。それは、せいの覚悟、潔さ、つまりは人間としての強さを示す。

 斎藤さんは「梨花」の死に顔の描写、「口を少しあけた昼間の月のような顔!」に注目した。「いちめんのなのはな」が繰り返される山村暮鳥の詩「純銀もざいく」に、「やめるはひるのつき」が出てくる。暮鳥と交流のあったせいは「純銀もざいく」を読んでいた、この詩句が死に顔に重なったと、詩人らしい見解を示した。これは収穫だった。

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