1歳下の後輩がやって来て、茶飲み話になった。ふだんは、つくっている野菜や関係している団体の情報などを交換して終わるのだが、なにかのきっかけで学生時代のヒッチハイクの話になった。
後輩は学生時代、沖縄を除く日本列島をあちこちヒッチハイクして回ったという。驚いた。私は早々と東京へ飛び出したから、ちゃんと卒業した後輩の学生時代をよく知らなかった。
私は、5年制の高専ができて3年目に入学した。高度経済成長下、即戦力になる「中堅技術者の養成」が目的の専門学校で、大学受験とは無縁だった。夏休みにはアルバイトをしながら、「やりたいこと」をした。後輩の場合は、それがヒッチハイクだった。
後輩は、北海道では建設工事現場でアルバイトをした。現場までの車の運転も任された。道内のあちこちを回ったという。
彼が行かなかった沖縄へは昭和45(1970)年の師走、私と同じ中退組の彼の同級生と2人で、パスポートを持って出かけた。
行き当たりばったりの素泊まりか民泊頼みで、2週間が過ぎるころには相棒がカメラを質入れするところまで窮した。もう本土へ帰るしかない――そう決めて、コザ市(現沖縄市)から那覇市へ移動した夜、「コザ騒動」がおきた。
沖縄から帰って年が明けた春、私はいわきへJターンして新聞記者になった。相棒は独立したばかりのバングラデシュへ農業支援に出かけ、戻ってヘルプ・バングラデシュ・コミティという市民団体を立ち上げたあと、週刊誌記者になった。
ヘルプ・バングラシュ・コミティは今のシャプラニール=市民による海外協力の会の前身だ。ヘルプの縁でシャプラともつながりができた。シャプラは東日本大震災で初めて国内支援に入り、いわきで交流スペース「ぶらっと」を開設・運営した。
定職に就く前は、夕方になるとしばしば落ち着かなくなった。夕焼け=写真=が鮮やかだと胸が騒いだ。
小学2年生になったばかりのころ、きれいな夕焼けのあとに町が大火事になった。ランドセルをしょって避難した。それ以外は灰になった。
沖縄旅行中、糸満の港で夕日を眺めながら、<さて、今夜はどこに泊まったものか>と思い悩んだ記憶もよみがえる。カネもない、将来もどうなるかわからない、そんな不安をかかえながらも、若さだけをエネルギーにあちこち動き回った。
半世紀前には、そんな若者があちこちにいた。同級生の1人は、ウラジオストクからシベリア鉄道を利用して北欧のスウェーデンへ渡り、定住してそこで亡くなった。還暦のとき、彼の病気見舞いを兼ねて仲間で北欧を旅した。
小田実の世界一周体験記『何でも見てやろう』が出たのは、昭和36(1961)年。中学生になりたてのころで、若者のヒッチハイクや旅へのあこがれは、そこから広がったのではなかったか。
若いときは後先を考えずにがむしゃらに行動した。むろん、それでけがをすることもあった。今はただただ無難であることを優先する、それでいいのか。いいんだ、年だから――と開き直りながらも、しばし青春の残像に浸った。
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