人間の髪の毛の細胞は死んだ細胞。爪も同じく死んだ細胞。「私たちの体は死んだ細胞と生きている細胞でできている。生と死をまとっている」のだという。
稲垣栄洋(ひでひろ)著『生き物の死にざま――はかない命の物語』(草思社、2020年)=写真=は、自然科学系のエッセーには違いないが、まるでポエム(詩)を読んでいるような気分になる。
総合図書館の新着図書コーナーにあった。このごろは興味深いテーマの新刊が並ぶ。前に借りて読んだ『日本野鳥の会のとっておきの野鳥の授業』(山と渓谷社、2021年)もそうだった。
生き物は食物連鎖や気候変動のなかで生きたり、死んだりしている。具体的には、食うか食われるか、あるいは飢えに襲われ、病気にかかる。人間による狩猟や飼育も加わる。そういう生き物を、「死ぬ」視点からとらえた本だ。
たとえば、ゴキブリ。ゴキブリホイホイにかかっても「彼は簡単には死なない。食べ物を食べなくても、数週間は生きていけるはずだ」。それでも、結局は粘着の罠から逃れられずに力尽きる。
これも生き物の死にざまの一例。クマケムシ(ヒトリガの幼虫)は「初夏になると、次々に道路を横断し始める」。私の経験では、夏井川の堤防上でこれが見られる。ついタイヤの下敷きになる個体もある。
なぜクマケムシは道路を横断するのか。著者は「そこに道路があるから、クマケムシは渡るのだ」と、ジョージ・マロリーの「そこに山があるから」を引用していう。
車にひかれたり、はねられたりして生き物が死ぬことを「ロードキル」というそうだ。事故で死んだ動物を解剖していろんな知見を得る「死物学」というのもある。やはり、新着図書コーナーにあった本で知った。
これは前に書いたブログの抜粋。――時々、動物が路上で死んでいる。街の幹線道路では猫の死骸が多い。郊外ではタヌキが目立つ。夏井川渓谷でも、タヌキ、テン、ヤマカガシなどの死骸を目にしてきた。
鳥も無事ではいられない。スズメ、コジュケイ、フクロウ、ムクドリ……。翼を持っているからさっとよけられるはずなのに、と思っても、車のフロントガラスなどにぶつかって昇天する。昔に比べて車のスピードが上がっているのだろう。今でも不思議なのはフクロウだ。そこに生きていたこと自体に感動を覚える――。
『生き物の死にざま』にはモズの「はやにえ」の話も出てくる。これにはしかし、違和感を覚えた。
モズはよく木の枝にカエルやバッタ、コオロギなどを串刺しにする。「モズたちははやにえを食べることはしない。はやにえを作れば、それで満足してしまうのだ」
ところが、『日本野鳥の会の――』では、モズがちゃんとはやにえを消費していることを、同会が観察している。
それだけではない。気候変動の影響ではやにえの腐敗が促進されると、モズは大きなダメージを受けるかもしれないという。近年、国内外でモズ類の個体数の減少が報告されているともいう。
フィールドワークにはプロもアマもない。モズの話を読んで思い出した。夏井川渓谷の隠居の庭でも、近年、はやにえを見かけなくなった。
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