2022年1月13日木曜日

わらつと納豆と赤福

                            
 親しくしている後輩がお土産を持って来た。暮れにマイカーで大阪の自宅へ帰った。フェイスブックにアップした写真と動画を見ると、地上300メートルの「ハルカス300」に昇り、奈良の法隆寺を訪ねている。奈良公園ではシカと戯れた。

 半世紀前の修学旅行は東大寺あたりで終わった。いわばその続きで、前に行けなかった法隆寺の方まで足を延ばしたのだという。

実家はいわき市の沿岸域から少し入った農村部にある。今はそこでひとり“帰農”中だ。おかげで、畑の実りがたびたび届く。

 お土産は水戸の「天狗納豆」と伊勢の「赤福」。納豆は家族へのお土産、赤福は関西からのお土産、ということだろう。

 納豆の話になった。関西の人はあまり好まないのでは? 後輩の家族はいわきにいたこともある。納豆に慣れている。むしろ、懐かしい味らしい。

 ただの納豆ではない。わらつと納豆だ。夜、さっそくカミサンがわらつとを開いて小鉢に入れた=写真上1。小粒で歯ごたえがあった。

 カミサンの実家では昔、わらつと納豆を作っていた。もちろん、自家用だ。阿武隈の山里でも、普通に作られていた。

 週末、土いじりをしていて実感することなのだが、稲作社会では米を収穫したあとにわらが残る。これが、むしろやわら布団、わらつと、畑の敷き草と、さまざまに利用された。もみ殻もそうだ。最後はそのまま土にかえる。貴重な生活・農業資材だった。

 昭和30年代の中ごろ、私は小学6年生で、朝、小遣い稼ぎに新聞配達をしていた。そのとき、わらつと納豆を売り歩く子どもとすれ違った。年長者だったか知り合いだったか、今となってははっきりしない。カミサンの記憶でも子どもが朝、売りに来た。

 今なら「児童労働」うんぬんの話になるところだが、どの家も貧しかった。薄暗い冬の朝に自分の小遣い、あるいは家計を助けるために働く子どもがいた。

 天狗納豆の包装紙に「由来」が書いてある。面白いのは鉄道との結びつきだ。明治22(1889)年、小山―水戸間の「水戸線」が開業すると、「天狗納豆」の商標で発売を開始した。

家計を助けるために、少年たちが駅前で納豆を売り始める。すると、水戸のお土産として旅行客の評判になった。このへんが子どもと納豆売りが結びついた始まりか。

 一方の伊勢の赤福は、およそ四半世紀以上前、上の子の大学サークル仲間の一人が伊勢出身だったこともあって、夏休みになるとお土産にもらって食べた。

 夏井川渓谷の隠居を合宿所にして、毎年、仲間がいわきで海水浴を楽しんだ。社会人になっても合宿は続いた。

 赤福は賞味期限が短い。カミサンが、上の子が来たので分け、近所の知人に分けたら2個だけになった=写真上2。

ちょうど晩酌の時間だった。「それしかないから、1個は残してね」と言われれば、むろんそうしたのだが……。あとでガンガン責められた。

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