平・下高久区が事業主体になって『まほろばの里 高久の歩き方』を刊行した=写真。今、注目されている「大字誌」だ。執筆者にいわき地域学會の仲間が何人かいる。たぶんその関係で恵贈にあずかった。
下高久はカミサンの父親のふるさと。私の親友と知人、後輩も住んでいる。いわき市内では、カミサンの実家(平・久保町)、隠居のある夏井川渓谷(小川町・牛小川)の次くらいに通っているところだ。
同地区には古墳時代の重要な遺跡がある。有名なのが神谷作(かみやさく)101号墳で、「埴輪男子胡座像(附)埴輪女子像」(国指定重要文化財)が出土した。「八幡(やあど)横穴群出土品」(県指定重要文化財)のなかでは、忍冬(にんどう)唐草文を透かし彫りにした金銅製幡(ばん)金具などが知られる。
いわきの古代文化が息づく地、「まほろばの里」の歴史や文化を、地元の人間が企画・調査・執筆したところに本書の特色があるという。個人的に興味を抱いていたものがある。3点ほどピックアップする。
区民から提供された古い写真を集めた「第1章
高久写真館」では、「酒造・醸造」に目が留まった。「三ツ星」「小錦」「稲政宗」「東海」「清盛」「谷盛」といった地酒の貧乏徳利が並ぶ。
「第5章 高久の歴史」でも、明治44(1911)年の『石城郡案内』を引用して、高久村で醸造業が盛んだったことを伝えている。
何年か前、義父の生家の跡取り(カミサンのいとこ)が亡くなった。葬式に出ると、先祖が酒造業だったという親戚がいた。
「水がよかったのか」。酒造りが盛んだった理由を別の親戚に聞くと、「米が余ったからだ」。考えてみればごく当然の答えが返ってきた。
その米をつくるには水が要る。口絵の「水田用水概略図」には、主に①愛谷江筋②滑津川③溜池――を用水源とする水田が色分けされている。
それと関係するのが、「第3章 道ばたの文化財」のなかで紹介されている「袴田堰円形配水施設」だ。
滑津川から揚水し、暗渠(あんきょ)でつながった円形の配水施設で分水する。県道下高久谷川瀬線沿いの「馬場鶴ケ井バス停」そばにある。後輩はこの配水施設から引いた水で米をつくっている。珍しい施設なので、一見の価値はある。
「平藩御典医松井家医学関係資料」(市指定文化財)も、地域医療史をひもとくうえで欠かせない。松井家に残る資料の一部を見せてもらったことがある。
『いわき市史 第6巻 文化』編の「医療」には、幕末から明治にかけて活動した医師の一人として、高久の「青島貞」が出てくる。後輩の本家の先祖で、漢方医だった。
明治の初期、磐前県病院が平にできると、松井玄卓(謹)らとともに青島貞が医員として勉学した、とある。
高久を歩く前から寄り道を始めてしまったようだ。『高久の歩き方』には読みたい聞き書きも、事象もある。山すその道を、あぜ道を行くように、ゆっくりじっくり高久の本のなかを巡ってみようと思う。
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