詩人草野心平と縁戚関係にある関内幸介さん=元いわき市立草野心平記念文学館副館長=がいわき民報に「長橋だより」を連載している。
4月中旬の同欄で、『草野心平日記』全7巻(思潮社)に収録されなかった日記の一部と、自身が所蔵する心平直筆の「最後の詩」を公開した。同じ日、それをニュースとして紹介する記事が同紙に載った=写真。
記事によれば、関内さんは文学館の副館長として親族や秘書、心平に長年連れ添い、最期をみとった故山田久代さんの娘らと親交があった。心平の没後、山田家から「最後の詩」をはじめ、晩年の心平所蔵資料の一部を譲り受けた。
未公開日記は昭和61(1986)年分で、秘書の成年後見人弁護士を通じて存在を確認・閲覧し、新聞では関内さん自身が記された同年8月18日分を紹介している。
弁護士との話し合いの結果、最後の日記は同文学館に移管された。まだ解読・公開はされていない。
最後の詩は衝撃的だった。「病に倒れて言葉が不自由となった心平」の生の感情が記される。行末には心平独自の「。」が付く。
最後の日記の一部が紙上で公開された意義も大きい。私自身、『草野心平日記』を読んで、日記の欠落部分に注目していたから、よけいそう感じるのかもしれない。それには個人的な理由がからむ。
『草野心平日記』は、心平生誕101年(平成16=2004年5月12日)を記念して刊行が計画された。実際には予定より1年遅れの平成17年4月25日に第1巻が刊行される。草野心平日記刊行会が編集した。
ところが、昭和29(1954)年、同46(1971)年と、同60(1985)年12月11日~61年8月22日のほぼ9カ月間は、日記が欠落している。
昭和46年の4月15~20日には、平の大黒屋デパートで「草野心平展」(磐城高校同窓会主催)が開かれた。
私は4月1日、いわき民報社に入社し、先輩記者たちの鉛筆削りとお茶入れを朝の仕事にしていた。
心平展が始まると、当時の編集長が「ダメでもともと」と思ったのか、担当の記者とは別に、「草野心平に会って話を聴いてこい」と言った。
取材のいろははもちろん、心平については教科書の詩ぐらいしか知識がない。個展会場に出向いて、秘書の女性を介して心平に質問しても、全く相手にしてもらえなかった。
人生最初の取材が“自爆”したこともあって、心平日記が刊行されたときには、故郷での個展をどう記しているのか、真っ先に読みたかったのだが、よりによってそこが欠落している。日記全7巻を買った意味がないではないかと、落胆したのを覚えている。
最後の日記は文学館にあるものの、昭和29年と46年はあるのかないのか、あるとしたら誰が持っているのか、今も心に引っかかっている。
「私が所蔵する『最後の詩』と、『最後の日記から』を撮影した写真をいわき民報に載せることで、さまざまな動きが少しでも前に進めば」。これが、関内さんが紙上公開に踏み切った理由だ。まずは最晩年の心平研究のために、最後の日記の公開が待たれる。
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