若い仲間が来て、酒を飲みながらいわきの喫茶店の話になった。すると、カミサンが若いときに集めたマッチを引っ張り出してきた=写真。
平の松月堂、花の木、VAN、丘。ほかに、天平(てんぷら)、春木屋(常磐・白鳥温泉)のも。春木屋は今も営業しているが、ほかはどうだろう。
ここは、おやけこういち著『いわき発・歳月からの伝言3(き~け)』(歴史春秋社、2022年)に当たるのが一番だ。「喫茶店、カフェ」の項目が入っている。
戦前のカフェの歴史はさておき、昭和30年代に始まった高度経済成長下、日本ではシャンソン喫茶、ジャズ喫茶、歌声喫茶、名曲喫茶などが次々に誕生する。
いわき地方でも、昭和32(1957)年にはモーニングサービスが始まる。おやけ著に例示された新聞広告から、図書館のホームページを開き、同年5月31日付のいわき民報を閲覧した。
すると、いわき民報社が経営する「洋食と喫茶ブラジル」だけでなく、銀座通りの「松月の喫茶」(松月堂のことだろう)も、6月1日にモーニングサービスを始めるという広告を載せていた。
「ブラジル」は「朝9~11時、コーヒー40円」、「松月」は「8~10時、フライエッグ・トースト・コーヒー80円」とあった。
昭和46(1971)年7月17日付のいわき民報も紹介されている。これも同じようにネットを介して閲覧した。
別刷り「日曜版」で喫茶店について特集していた。いわき市平には大都市並みに多い、という内容だった。
ちょうどいわき民報社に入った年で、昼は近所の食堂か喫茶店で腹を満たすことが多かった。とにかく、どこにでも喫茶店があった。
高度経済成長政策と歩調を合わせるように、昭和37(1962)年、平高専(現福島高専)が開校する。2年後、3期生として入学した。
福島県内を中心に「ヤマザル」が平に集まった。先生や先輩、同級生にもまれ、悩みながら考え、考えながら言葉を紡いでいった。そうしないと議論の輪に入っていけなかった。
そのころ、高校生は喫茶店への出入りが禁止されていた。ところが、高専生はなぜか自由だった。
『いわき発・歳月からの伝言』を読んで、その背景がわかった。昭和39(1964)年7月、夏休みを前に「石城地区高等学校校外生活指導連盟協議会」が喫茶店への出入りを禁止した。
高専生は「生徒」ではなく、「学生」であることを先生が言い、先輩が言った。年齢が同じでも「学生」だから、学生服のままでも喫茶店に入ることができた。
記憶に残る最初の喫茶店は、名前は定かではないが、うなぎの寝床のように細長く狭い平和通りの喫茶店だった。
その後、いろいろ長居するようになった喫茶店に「丘」がある。いわき民報の当時の新聞広告によると、「茶房
丘」で、ここは朝7時から夜11時までやっていた。
同級生の親類がやっていた関係で、「じゅん」(三田小路~中町~内郷・御厩町)にもときどき顔を出した。ここは今も営業を続けている。そのころ、喫茶店はつかの間の解放区だった。
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