2023年5月1日月曜日

再理解

                      
 夜、BSテレ東の「徳光和夫の名曲にっぽん」を見るともなしに見ていたら、歌手の五木ひろしさんが自分で選んだ名作歌謡を解説していた。

 紹介したのは3曲。サトウハチロー作詞・古関裕而作曲・藤山一郎歌の「長崎の鐘」、西條八十作詞・古賀政男作曲・霧島昇歌の「誰(たれ)か故郷を思わざる」、そして清水みのる作詞・倉若晴生作曲・田端義男歌の「かえり船」だった。

 古関裕而は福島市出身で、朝ドラ「エール」のモデルになった。彼が作曲した軍国歌謡「暁に祈る」は、作詞が同じ福島出身の野村俊夫、歌が本宮出身の伊藤久男。朝ドラにもこの「福島トリオ」が登場した。

霧島昇はいわき出身だ。そのへんは理解していたが、あとの面々は、ふだんは忘れている。そのなかで、ハチローと八十については、震災前、図書館へ通って調べたことがある。それもあって、再理解というのか、自分のブログを読んで「そうだった」と、あれこれ思い出した。

童謡詩人の野口雨情は一時、湯本温泉街で過ごした。故里見庫男さん(いわき地域学會初代代表幹事)が雨情について調べ、資料を収集した。その資料約1400点を寄贈して、野口雨情記念湯本温泉童謡館がオープンし、里見さんが初代館長に就いた。

私は、童謡にも雨情にもほとんど関心がなかった。たまたま会社を辞めた時期と童謡館の開館準備時期が重なり、里見さんから頼まれて目録づくりを手伝った。宿題も出された。「毎月1回、文学教室をやってほしい。最初は金子みすゞ。あとは自由」

みすゞを調べ、次にみすゞの師匠の八十、八十の弟子のハチローへと移り、さらには竹久夢二、雨情、山村暮鳥ゆかりの人々を追いかけた。

そうしたなかで、若い仲間からハチローの色紙を見せられた=写真。「二人で歩む 遠い道もくたびれない」。童謡館では、この色紙の話もした。

大正時代が始まると、暮鳥がいわきにやって来る。詩の雑誌を発行するなどして、いわきの詩風土を耕した。いわきは全国でも屈指の文学運動の拠点になる。この時代のことを自分なりに調べておきたい、という思いが一方にはあった。

童謡史と大正時代のいわきの詩史、いいかえれば外発的関心と内発的興味が結びついて、いわきを舞台にした大正ロマンと昭和モダンが見えてくるようになった。

なかでも詩と音楽の違いは、当時、勃興したメディアの違いではないか、という「仮説」が浮かんだ。

暮鳥のネットワークに属していたのは三野混沌(1894年生まれ、以下同じ)、猪狩満直(1898年)、草野心平(1903年)、作家の吉野せい(1899年)らだ。

これに対し歌謡曲組は、生まれが野村1904年、古関1909年、伊藤1910年、霧島1914年と、混沌らよりおおよそ一回り若い。

ラジオ放送が始まるのは大正14(1925)年。「読む」「聴く」メディアの環境の違いが、後発の若者たちを歌謡(大正時代に起こった童謡運動も含む)へと向かわせたのではないか。「名曲にっぽん」を見ながら、あらためてそのことを思った。

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