風の便りを耳にしたようだが、どうも気にかかる。というのも、もう1年以上、顔を見ていないからだ。
夜、娘さんに電話をかけると、「ごめんね、おじちゃん」。それだけでもう察しがついた。あとはカミサンがいろいろ聞いた。
昨年春、娘さんから引き継いだ花屋をたたんだ。そのころすでに病気が進行していたらしい。晩秋に自宅で息を引き取ったという。
カミサンとは家が近いので幼なじみだった。私は草野美術ホールがあったころ、「おっちゃん」(経営者)の紹介で知り合った。ざっと半世紀前のことだ。
同ホールには美術系の若者が出入りしていた。個展やグループ展を開く。それを観覧する。取材で事務室を訪れると、たいがい同世代の若者がいた。
事務室は芸術論や文学論がとびかうサロンと化した。彼女もまたそのサロンの一員だった。
わが家に彼女が描いた仏画がある=写真。署名の上に「1981年」とあるから、30代前半の作品だろう。仏様の身のこなしと温顔がどこかユーモラスで人間臭いところが、いかにも彼女らしい。
やがて結婚し、子どもができたあともつきあいは続き、娘さんが大きくなると野鳥などの生物を介して、やはりつながりができた。
震災の前年、娘さんが花屋を開いた。それを手伝ううちに創作意欲がわいたらしい。ドライフラワーのリースやアレンジメント風の作品を作って、単独で、あるいは娘さんと2人で展覧会を開いたこともある。
娘さんが結婚したあとは花屋を引き継ぎながら、定休日にわが家へ遊びに来た。カミサンとひとしきり雑談して過ごした。私が加わることもあった。
花屋をたたむときには、「あいさつ状」を頼まれた。原稿を渡すと、あとで連絡がきた。「やっぱり、自分の言葉で書く」
こうして若いときから細く長く、半世紀も行き来が途絶えなかった人間は、ほかにはいない。今、振り返ってしみじみそう思う。
このところ、知人の訃報に接する機会が増えた。草野美術ホールで出会った陶芸家夫妻がいる。奥さんが4月に亡くなったことを、個展を報じる新聞で知った。高専の陸上競技部の後輩も先日亡くなった。
知り合いがぽつりぽつりと彼岸へ渡っていく。現実の川が生と死を隔てる川に見えてくる、というのは大げさだが、そんな幻像が脳裏に浮かぶ。
※おことわり=4年ぶりに対面の行事が集中し、準備や調整に追われています。とりあえず27、28日のブログは休みます。
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