明治末期からいわき地方で発行された地域新聞がいわき市立図書館に収蔵されている。図書館のホームページを開いて「郷土資料のページ」の「新聞」をクリックすると、デジタル化された地域新聞48紙を読むことができる。
最初(平成25年3月1日)は明治~昭和期の18紙、5年後(平成30年11月1日)には倍増されて計36紙がアップされた。
そのあともデジタル化が進み、大正後期に発行された「平陽新報」「磐城興信日報」「いわき新報」「磐城日日新聞」「磐洋新聞」「常磐鉱報つるはし」「磐城商工時報」「磐城新報」「新いはき」「たひら」「東北実業新聞」「四倉新報」の12紙が加わった。
今につながる最初の新聞は磐前県庁が発行した「磐前新聞」(明治6年創刊)だが、これは未収蔵のためか「郷土資料のページ」にはない。
それに続くのが明治40(1907)年、いわきで最初に発行された民間新聞「いはき」だ。これはデジタル化されているので、「郷土資料のページ」からプリントアウトして、新聞そのものを調べたことがある。
それによると、創刊号から翌41年4月11日付の23号まで閲覧が可能だが、創刊号の1~2面、4・6号、および23号の3~4面(推定)は欠落している。
発行日と面建ても動いている。第5号までは月1回25日発行(創刊号20ページ、第2号12ページ、第3号16ページ、第5号8ページ)で、第7号(10月25日付)からは月3回(5・15・25日)、各4ページに落ち着く。
第14号は明治41年1月1日付の新年号として16ページに拡大。3月は8・18・28日発行に変わる。終わりは何号で、いつまで発行したのかはむろんよくわからない。
発行人は平の新聞店主吉田礼次郎(1870~1933年)。クリスチャンで、創刊2号には遊郭設置反対論が載る。
礼次郎は明治中期から新聞販売業を営み、「関東北にその人あり」と称された。昭和8(1933)年6月25日、63歳で急逝すると、各紙・誌が死亡記事を載せて追悼した。そのひとつ、月刊「ジャーナリズム」7月号を要約すると――。
彼は旧磐城平藩士の子として生まれ、苦学力行して一家をなした。早くから政治に奔走し、郡会議員・郡会議長を務めたあと、新聞販売業に専心。特に、東京日日新聞(現毎日)の主義方針に共鳴して同紙の増紙拡張に力を入れ、関東・東北新聞販売会の革新運動に奮闘した。
先日、やはり若い古書店主が「こんなものが出てきた」と、「いはき」のつづりを持って来た=写真。創刊号から4号までが綴じられている。
新聞の実際の大きさがわかった。夕刊いわき民報と同じタブロイド判だ。創刊号の1面は破れているものの、横題字の下は広告で埋められていた。
2面は記事だが、「露国」「戦後の経営」「国家の盛衰」などとあるから、日露戦争後の日本について論じたもののようだ。とりあえずきょうは「いはき」の現物を目にしたという報告にとどめ、4号については後日よく読んで、内容をお伝えしたい。
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