2019年4月30日火曜日

食欲には負ける

 若いときには、「食べる」ことより「飲む」ことが先にきた。今は、「飲む」ことと同じくらいに「食べる」ことが気になる。飲めなくなった分、そちらの興味・関心がふくらんだか。
 レストラングルメではない。日常の食生活を彩る程度にサバイバルグルメを自称している。山菜やキノコを採る。ネギや白菜を栽培する。それらをどう調理したらうまく食べられるか――そんなことを、カミサンのウデを借りながら考える。

 原発震災後、セシウムが高いキノコや山菜はもちろん食べない。夏井川渓谷の隠居は全面除染の対象になり、庭の表土がはぎとられた。代わって清浄な山砂が敷き詰められた。そこから生え出たキノコ、例えば春のアミガサタケや梅雨期のマメダンゴ(ツチグリ幼菌)は、ありがたくいただく。

 アミガサタケは枝垂れ桜の樹下に生える。4月21日の日曜日、満開の花の下に今季初めて頭を出した。次の日曜日には大きくなったものが何個か出ているはず――図星だった。計7本を採った=写真。アミガサタケは、コリコリ感と、噛めば噛むほどしみでるほのかなうまみがたまらない。

 さきおととい(4月27日)も書いたが、改元がらみの10連休は、わが家には縁がない。地元の長寿会総会への顔出し、いわき地域学會の資料発送作業、神社の例大祭参加、行政資料の配布と、日替わりでなにかある。

 ちょうど春の土の味が出回るときでもある。夕方になると、<きょうはどんな酒のさかなが……>と、脳内が騒がしくなる。

タラの芽・ワラビ・アミガサタケ……。自分で採ったり、お福分けで届いたりしたものがある。おとといの日曜日は、カツオの刺し身のほかに、タケノコとワラビの煮物を食べた。きのう(4月29日)はタラの芽のてんぷら、アミガサタケとアスパラガスの炒め物をつついた。今朝は、アミガサタケの味噌汁を――と、カミサンに頼んである。

 おととい、隠居で栽培している三春ネギを300本ほど定植した。その何倍もの捨てネギが出た。そこから芽ネギ、というよりは葉ネギに近い苗を選り分け、新聞に4束ほど包んで持ち帰った。それをいつも行く魚屋さんや知り合いに配った。

わが家でももちろん、卵焼きや味噌汁の具にした。生長したときのような甘みや香りはない。が、若いので抜群にやわらかい。一仕事(ネギの定植作業)を終えた安堵感にやさしい味がからまって、つい焼酎の量も増える。同時に、食欲には負ける、いや食慾しかなくなったか――なんて自問しながら、口をもぐもぐさせることも増えた。

2019年4月29日月曜日

三春ネギ苗を植える

 夏井川渓谷の隠居の庭で昔野菜の三春ネギを栽培している。春に種をまくいわきの平地のネギと違って、「秋まき春植え」だ。苗の根元が鉛筆くらいの太さになったら定植する。
1週間前の日曜日(4月21日)、隠居の近くの奥さんがそばの道路からネギ苗を見て、「そろそろ植えてもいいね」という。

それもあって、定植は5月最初の日曜日(5月5日)と決めた。この1週間は寒暖が極端だった。歩けば汗ばむ日が続いたかと思うと、冷たい東風と雨が降って冬に逆戻りしたような日が続いた。

きのう日曜日(4月28日)は、朝から青空が広がった。朝食は隠居で,とカミサンがいう。弁当を用意して、早朝7時半に出かけた。

隠居に着くとすぐ土いじりを始めた。ネギを定植するために溝を切り、余った土をスコップでかき出しているうちに、次の日曜日、天気はどうなるかわからない、きょう植えてしまおう――エンジンがかかった。

溝を切る。ネギの苗床をほぐし、太い苗と細い苗を選り分ける。こうなったら何時間かかっても定植を終えるしかない。途中、遅い朝食をとっただけで、ほぼ5時間がかりでネギ苗を定植した=写真。

夫婦2人だけの自家消費用だから、そんなに必要はない。ざっと数えたら300本はあった。ほかに、ばらすのが面倒になって残した苗床の一列と、わが家の軒下で育てた苗も含めると、一日1本で1年分は確保した。

午前も午後も土いじりをするのは久しぶりだ。終われば足や腰が重い。それと引き換えに安堵(あんど)感が広がった、はずだが……。苗床のネギに3~5ミリほどの黒い虫がとりついていた。ネギの葉が途中からちょん切られている。

黒い虫をつまんではつぶす――を繰り返したが、しばらくするとまたわくようにしてとりつく。定植したばかりの苗にもさっそくとりついていた。今度の日曜日までに何本ちょん切られているだろう。

前にネットで検索し、図書館から幼虫図鑑を借りて調べ、ルーペで見たりした。ネキリムシ(根切り虫)の一種、カブラヤガ(あるいはタマナヤガ)の幼虫らしいのだが、どうもよくわからない。この虫は根元から葉を食害する。ところが、苗の上部が切り落とされている。黒い虫とは別の、ヒョウタンゾウムシのしわざ?

ネギを食害する虫たちがいるから、300本を植えたといっても安心できない。実際に収穫できるのは250本、場合によっては200本くらいに減る。

2019年4月28日日曜日

「後ろ倒し」いつから

 NHKが木曜日(4月25日)の「おはよう日本」で、日産のゴーン前会長の初公判について、こんなふうに報じていた。「新たに追起訴されたことで前会長の日程は後ろ倒しになるとみられます」。「後ろ倒し」? ことばとしては初めて聞くので、調べてみた。
「NHKニュース 後ろ倒し」で検索すると、NHK放送文化研究所の<メディア研究部・放送用語>の滝島雅子さんの文章に出合った。苗字に覚えがあった。福島放送局が初任地のアナウンサーだ(った)。今は「文研」の研究員として放送用語などを調べているらしい。

「NHKニュース 後ろ倒し 4月25日」では、冒頭に紹介した記事の一部(「後ろ倒し」の字が見える)と、見出し「ゴーン前会長 長期勾留に注目集まる 裁判所の“異例”の判断も」が目に飛び込んできた=写真。それをクリックして本文を読むと、ん? 「後ろ倒し」ということばはない。代わって、「――日程は当初の見通しより遅れるものとみられます」とあった。「後ろ倒し」に対する違和感・苦情が寄せられたために“修正”したか。

で、滝島研究員の文章(「『前倒し』と『後ろ倒し』」)である。去年(2018年)3月にアップされた。Q&Aのかたちをとってポイントを示したあと、解説を加えている。

Q:「前倒し」はよく耳にする表現だが、「後ろ倒し」は、放送のことばとしては、適切だろうか。
A:どちらも放送で使うことがありますが、いずれも、もともとは政治家や官僚の業界用語として使われ始めたものです。放送では、安易に使わず、ほかの表現も探る努力も必要でしょう。

解説では、2015年9月8日、経団連が「大学生らの採用面接の解禁を8月に後ろ倒しにした今の指針の検証を行う方針」といったニュースの使用例を紹介している。

その2年前、今の首相が就職活動の「後ろ倒し」に言及し、「ことばの問題として注目されると同時に、メディアにおけることばを話し合う新聞用語懇談会でも取り上げられました」という。大平正芳首相だったら、たぶん「後ろ倒し」には強烈な違和を覚えて「先送り」と言い換えたことだろう。

その懇談会でのやりとりを伝える読売テレビの人間のブログもあった。フジテレビ「各社はこの表現を使っているのか」。NHK「政府コメントで『就職協定を“後ろ倒し”にして』と最近よく出て来る。『先送り』の言い換えではないか?」。共同通信「社内の用語委員会でも問題になった。『前倒し』も、そもそも役人用語」(以下略)

滝島解説に戻ると――。用語懇談会では、肯定的な意見の一方で、「俗語的で使いにくい」「取材先の官庁でさんざん使われているが違和感が強く当面使わない」「あまり広げていくべきでない、注意する語」といった慎重な意見が大半を占めたという。

ただ、1973年ごろに現れた官庁俗語の「前倒し」も、半世紀近くたった今は、だれもが違和感なく使っている。「『後ろ倒し』も今後、なじんでいくのかもしれません」といいつつも、滝島研究員は「取材先が使っているからといってそのまま使うのでなく、放送で使うときには、ほかに相応しい表現がないかを考える努力も求められるでしょう」とくぎを刺す。

念のために、座右にある共同通信『記者ハンドブック 新聞用字用語集』12版にあたると、「後ろ」の項に「後ろ倒し」はなかった。最新の13版はどうか。図書館へ行って確かめたら、やはりなかった。「後ろ倒し」はまだまだ一般的ではない。

2019年4月27日土曜日

10連休が始まった

 歩くだけで汗ばむ日が続いたと思ったら、きのう(4月26日)は一転、雨になって冷たい東風が吹いた。3日前の火曜日は、ところてん=写真=がうまかった。きのうは、座業に使っているこたつにスイッチを入れた。春とはいえ、寒暖の差が大きすぎる。
 きょうから「10連休」だ。その5日目、5月1日には元号が「平成」から「令和」に替わる。きのうのテレビで10連休を利用して海外へ出かける人が、取材するアナウンサーの質問に誘導されて答えていた。「平成」に出国して「令和」に帰国する――。

「10連休」を文字通り休める人間はどのくらいいるのだろう。10連休を報じるメディアはまず無理だろう。10連休を取材して報じるために休めないのだから――そんなことを思ってしまうのは、昔、その世界にいたからだ。

 それはさておき、生活の現場では、10連休はどこかの話でしかない。店をやっている。休めない。朝昼晩、食事をつくる。休めない――と言われたら、答えようがない。大型連休も改元も家のなかではあまり関係がないのではないか。

 実は、となるのだが、10連休はチャンスでもある。引き受けた仕事がある。余計なことをせずに、それに集中する。そのほかに、ひとつふたつ、やることがある。きょうは地元の長寿会の総会に来賓として出席する。1週間後の土曜日には、やはり区を代表して地元の神社の祭りに顔を出す。その翌日、日曜日には夏井川渓谷の隠居で三春ネギの苗を定植する。

世間が「10連休」のときこそ、集中して仕事をする、気がつけば元号が替わっていた、というくらいになればいい。意気込んでもたいがいは計画倒れに終わるが、今度の仕事はすぐ締め切りがくる。先送りはできない(先日、NHKがニュースで「前倒し」の対語として「後ろ倒し」を使っていた。初めて聞く言葉だった)。

2019年4月26日金曜日

キュウリの古漬けもあと少し

 わが家の漬物カレンダーは、12月から4月が白菜漬け、5月から11月が糠漬けだ。私がつくる。11月に白菜を漬け始めることもある。3月に終わることもある。その年の気温や白菜の出回り状況による。つなぎは市販のキムチなどで、夏にキュウリを栽培したときにはその古漬けが加わる。
 今年(2019年)は、白菜を漬けると早いうちから表面の水に白い膜(産膜酵母)が張った。暖冬で乳酸菌の活動がよすぎたのか、日を追って酸味が増した。白菜漬けの出来としてはあまりよくない。3月半ばに白菜漬けが切れたのを最後に、大型連休まではキュウリの古漬けと市販の漬物でつなぐことにした。

 キュウリの古漬けは、去年夏、自分で栽培したものやもらったものを次々に漬け込んだので、結構な数になった。ときどき容器から引っ張り出しては水につけて塩を出し、薄切りにして食卓に載せた。3月後半からは何本かまとめて取り出したら、とうとう底に触れるようになった。4月20日過ぎに全部取り出すと、10本もなかった=写真。こうなったら、糠床の眠りを覚ますしかない。

糠床は冬の間、食塩のふとんをかぶって眠っている。例年だと、大型連休中に食塩を取り除き、新たな糠を入れて目覚めさせる。去年は、連休前には眠りを覚ました。今年もきょうあたり、糠床の入った甕を勝手口から台所に戻し、糠漬けの準備をする。そのための新しい糠も用意した。(温暖化が進むと、糠床の冬眠が短くなる? 家によっては温暖化と関係なく、一年中糠漬けをつくっている。わが家の目安ではそうなる)
 
捨て漬けの野菜は、まずはキャベツ。あとはカブ、大根、キュウリといったところ。なかでも、キュウリはすぐ漬かる。キュウリは、一年中出回っているので、旬の感覚が薄れた。糠漬けを再開すると、決まって歴史家の故佐藤孝徳さんの言葉を思い出す。「キュウリは、八坂神社の祭りが終わるまで食べない」。それはそれとして、これからはキュウリが糠漬けの主役になる。

2019年4月25日木曜日

もっと雨が欲しい

 きのう(4月24日)午後、用があって街へ出かけたあと、ラトブへ寄った。地下駐車場から地上へ出ると、いきなり雨が降ってきた=写真下1。街へ向かうとき、西方に連なる阿武隈の山がかすんでいた。曇天なのに霞がかかっている、と思ったのは間違いで、雨のカーテンだったのかもしれない。
雨はあっという間にやんだ。通り雨だった。車にこまかいほこりがこびりついている。雨がほこりを洗い流してくれるかと思ったが、かえって空中の粉じんを落として汚したか。(今朝は起きると、雨が降りはじめたところだった。いったん雨脚が強くなったものの、すぐ静かになった。昼にはやむらしい)

 先日、地元の小学校で「子供見守り隊」と児童の顔合わせ会が開かれた。校長室で待機している間、よその区長さんらと雑談した。さっぱり雨が降らない話になった。間もなく一斉に田んぼに水が引かれる。「水が足りなくなるようなことはないだろうが……」

前にも書いたが、いわきでは少雨の状態が続いている。夏井川は5月の田植え時期になると、小川、愛谷両江筋(農業用水路)に水を取られて水位が下がる。あちこちに“川中島”ができる。すでにそういう状態になっている。

ハクチョウが越冬する平・塩地内にも、大きな川中島ができた。ある日、そこに自動車のタイヤの跡がついた=写真下2。ここではときどき、重機が入ってたまった川砂を採る。ダンプが近くまで行ける。4輪駆動車なら岸まで下りられる。水量が減ったために“蛮勇”を振るいたくなった人間がいたのだろう。
雨が降らない分、雑草は伸びが弱い。雨が降りだすと、刈っても刈っても生えてくるようになる――農業がなりわいの区長さんのぼやきだ。

このごろは、朝、歯を磨きながら、庭のヤブガラシの芽を摘む。あちこちから生え始めている。つる性植物で、放置するとやぶに絡まって枯らすくらいに生命力が強い。

これも少雨のせいで生長が抑制されているのだろうが、次から次に芽を出す。20歳前に読んだ大江健三郎の小説に「芽むしり仔撃ち」がある。ヤブガラシの芽を摘みながら、この「芽むしり」という言葉を思い出した。また読んでみるか。

2019年4月24日水曜日

いわき地域学會の総会記念講演

先週末の4月20日、いわき市生涯学習プラザでいわき地域学會の平成31年(2019年)度総会が開かれた。終わって、記念講演が行われた。相談役の小野一雄さんが「『古文書が語る磐城の戊辰史』を語る」と題して話した=写真下。
小野さんはいわき歴史文化研究会の代表でもある。戊辰戦争150年の節目の去年(2018年)、同会と磐城平藩の藩士の子孫の集まりである平安会と協働で、『古文書が語る磐城の戊辰史』を刊行した=写真右下。

収録された史料は「安藤信正書状 上坂助太夫宛」や、江戸から船で北上、平潟に上陸した輪王寺宮に会津まで随行した泉藩御用医師滝川濟の「戊辰日乗」など17点、ほかに付録2点で、当時の藩士や農民などの個人の記録を翻刻し、解題を添えた。

本と向き合い、じっくり読み込むのが一番とはいえ、漢字だらけの文語体ではなかなか入り込めない。間に翻刻・編集側の生の解説が入ると理解が深まるのではと考えて、長い付き合いの“先輩”に講師をお願いした。

小野さんは、講演の中で①できるだけ多様な内容になるようにする②磐城での戦いが住民たちの生活にどのような影響を与えたかがわかる史料を取り上げる――といったことを編集方針にして本を編んだ、と語った。

個人的に興味をそそられたのは、磐城平藩の鋳物師・椎名家の記録だ。「椎名家記録書抜き」の解題によると、椎名家は藩のために大砲や玉筒を鋳造し、西洋流の「六斤山砲」「三斤山砲」「ハンドモルチヒル砲」もつくった。「嘉永六年のペリー来航前後、国内では国防の意識が急に高まり、各藩は重砲の製造や開発に力を注いで製造技術が発達した」。磐城平藩も例外ではなかった。

鋳物師は磐城平城の北側、梅香町に住んでいた。椎名家でつくった寺の梵鐘や鰐口などは、県や市の文化財に指定されている。

若いころ、梅香町に当主を訪ねて取材したことがある。何の取材だったかは忘れたが、先祖は江戸時代の鋳物師――ということだけは覚えている。しかし、その話を聞きに行ったわけではなかったようだ。

信正は、すでに引退していた。が、戊辰戦争が始まると、「逃げる兵がいるようでは駄目だ」とか「敵に先んじて攻めなければ後手に回るばかりだ」とか、戦いへの強い意思を示している(解題)。

 安藤家は、磐城平藩領のほかに、美濃(岐阜県)に飛び地があった。当主・信勇は戊辰戦争が始まったころ、この飛び地に滞在していて、西軍に早々と恭順の意を示した。「しかし、地元の平では藩主不在のなか、藩論が二分していた」という。信正の書状から推し量れば、どちらが優勢だったかはいうまでもない、か。

「佐川与五右衛門遺書」は、戦いに参加する藩士(父親)が、農家へ養女に出した3歳の娘にあてたものだ。「武家にむまれ 我が娘たること 相違なし」「実の父母よりは 養父母のかた かへつて恩ふかきぞかし」「武家の身ほど このほどはおそろしく既に我か家も たへはてんとす」。父親の情愛がよく伝わってくる。

小野さんの講演を聴き、それにリンクして本を読み返すことで、この戦いが「住民たちの生活にどのような影響を与えたか」が、少しみえてきたようだ。

2019年4月23日火曜日

菜の花・タラの芽・ワラビ

きのう(4月22日)、春のキノコのアミガサタケの話を書いた。それで刺激されたわけではないが、山里の春の味を書いておきたくなった。
夏井川渓谷の隠居の庭の菜園に去年(2018年)8月下旬、白菜の種をまいた。ところが、芽生えが遅れた。9月になっても3分の1くらいしか芽が出なかった。間引き苗を植えたら、最終的には50株近く活着した。が、「耐病黄芯耐寒性大玉80日」とうたっているようにはならなかった。それを生かすこちらのウデがなかったのだろう。

結球して、白菜漬けにしたのは2株だけ。あとは、越冬させて春に菜の花=写真上=を摘むことにした。春先はつぼみが一つ、二つだから、まだよかった。今は脇芽(方言で「やご」という)も含めて、毎週摘んでも、摘んでも間に合わないほど花芽が出てくる。好きな人は摘んでいっていいよ――といいたくなるが、無断で入ってもらってはもちろん困る。庭にあるタラの芽=写真下=が、それで全滅に近い状態になった。
平成21(2009)年春、渓谷に住むTさんからタラノキの苗木10本(長さ30センチほど)をもらって、道路に近いところに植えた。丸2年後、原発震災から1カ月余の4月下旬、苗木は2メートル前後に育っていた。てっぺんに芽が出たころ、きれいにカットされてなくなっていた。

原発事故の直後だから、若い人たちは放射性物質を恐れてアカヤシオ(岩ツツジ)の花を見に来るようなことはなかった。鎌で幹をばっさり斜めに切り倒す。幹を折れば折ったで、そのまま放置する――という手口から、中高年の仕業(しわざ)だと確信した。今もその認識に変わりはない。年配者ほど欲望にかられて山を荒らす。ごみも捨てていく。

隠居の山側に空き地がある。おととい(4月21日)、土地の所有者がワラビ採りをしていた。では、谷側の小流れのそばにコゴミ(クサソテツ)が出ているかも、と思って見に行ったが、影も形もなかった。たぶん今度の週末には生えている。

というわけで、春~初夏(山菜・アミガサタケ)と梅雨~秋(キノコ)は、隠居の周りをぶらついて写真を撮る回数が増える。

2019年4月22日月曜日

枝垂れ桜とアミガサタケ

 いわきの平地のソメイヨシノはあらかた葉桜になったが、丘や山はヤマザクラの花と芽吹いた葉でパステルカラーに染まっている。
 上の孫(小6)が誕生日を迎えたので、きのう(4月21日)、「好きなものを買ってやるから」と連れ出した。ガンプラ(ガンダムのプラモデル)を売っている店へ直行した。孫は夏井川渓谷の隠居を「山のおうち」という。買い物をすませて、「山のおうちへ行くか」というと、うなずいた。

 隠居へ誘ったのにはワケがある。カミサンは庭の枝垂れ桜が咲いているかどうか、私はその樹下にアミガサタケが生えているかどうか――を確かめたかった。孫も隠居へ来ると、庭に水路をつくって水遊びをする。その水路が残っている。風呂場からホースを伸ばして水を出すと、水路が復活する。スコップで水路を新設・修復することができる。枝垂れ桜・アミガサタケ・水路遊びで、渓谷行きが決まった。

 枝垂れ桜は満開だった=写真上1。平地のソメイヨシノと時期を同じくして咲く隠居の対岸のアカヤシオはどうか。今年(2019年)は平地のソメイヨシノより早く咲き始め、平地のソメイヨシノが散り始めた今も、散ったり色あせたりしてはいるが、谷から奥山の尾根まで、まだ咲いていた。これにヤマザクラの花が加わって、それなりにはなやかな雰囲気をかもしていた。気温の低い日が続いたのが、花が長持ちした理由だろう。

 でも行楽客は、色あせた対岸の点描画より、道路からすぐそこにある隠居の庭の枝垂れ桜に目がいく。「写真を撮ってもいいですか」。カミサンが「どうぞ、どうぞ」と応じる。「家桜(うちざくら)」ながら、通りすがりの人がカメラを向けるまでになった。それはそれでうれしいことだ。

「花よりキノコ」の私は、その樹下に入り、地面に目をこらす。ない、アミガサタケは出ていない。でも、見落としているということがある。二度目もない。
三度目。幹を背に“花の噴水”がこぼれる先まで、同心円状に少しずつ視線を移していくと、あった。大人の親指大の子実体(植物でいえば花)が一つ=写真上2。近くに、また一つ。やはり、生えていた。孫に、「フランスでは、このキノコが春の味なんだよ」と言ってみる

 平成25(2013)年師走、庭が全面除染の対象になり、業者が表土をはぎとったあと、山砂を敷きつめた。除去された表土より深く菌糸が残っていたか、山砂に胞子が含まれていたかして、3年前(2016年)、久しぶりにアミガサタケが発生した。以来、毎年出現する。

これまでの採取記録をみると、アミガサタケは寒暖に関係なく、決まった時期(4月20日過ぎ)に発生している。それで、きのうは念入りにチェックした。油で炒めると酒のさかなになる。コリコリ感が持ち味だ。

枝垂れ桜・アミガサタケ・水路遊び――それぞれが目的を達成して満ちたりた気分になった。

2019年4月21日日曜日

浄土宗名越派のつながり

 平成7(1995)年に故佐藤孝徳さんが『浄土宗名越派檀林専称寺史』を出したとき、校正を担当した。
同寺は江戸時代、東北地方を中心に末寺が200を越える大寺院だった。同時に、やはり主に東北地方からやって来た若者が修学に励む“大学”(名越派檀林)でもあった。

わが家のある中神谷地区からは夏井川の対岸、山崎の山腹に伽藍=写真上=が見える。その寺が「東北文化の交流の場であり、新たな文化の発信地」(佐藤孝徳)だったことを知って以来、東北の浄土宗の寺の名を見たり聞いたりすると、『専称寺史』を引っ張り出して、末寺だったかどうかを確かめるクセが付いた。

3・11で大きな被害に遭った岩手県大槌町――。高台の大念寺で学生ボランティアによる「寺子屋」が始まったとき、やはり『専称寺史』に当たって、同寺が専称寺の末寺だったことを知った。太宰治の「津軽」に登場する今別の名刹・本覚寺も専称寺の旧末だ。

先日の夕方、TUFが「てくてくふくしま」というコーナーで桑折町を紹介していた。境内に「御蔭廼松(みかげのまつ)」=写真下=がある無能寺も登場した。
 専称寺で学んだ高僧・名僧は数多い。名越派を研究する孝徳さんらの論考で知った中で一番記憶に残るのは、江戸時代前期の無能上人(1683~1718年)だ。同寺も専称寺末ではないのか。

これは前にも書いたことだが、無能上人は今の福島県玉川村に生まれた。山形の村山地方と福島の桑折・相馬地方で布教活動を展開し、31歳で入寂するまで日課念仏を怠らなかった。淫欲を断つために自分のイチモツを切断し、「南無阿弥陀仏」を一日10万遍唱える誓いを立てて実行した――

無能上人は、江戸時代中期には伴嵩蹊が『近世畸人伝』のなかで取り上げるほど知られた存在だった。今は岩波文庫で読むことができる。

今度も『専称寺史』に当たった。「彼の思想を永く伝えるべく行動をおこしたのが上人の門弟不能上人である。不能上人は頽廃した桑折村の正徳寺に師無能上人の遺骸を改葬、享保20年(1735)無能寺と改称して律院とした」「あくまでも無能寺は専称寺末である」とあった。

2019年4月20日土曜日

庭の春を食べる

4月下旬になると、庭のミョウガが芽を出す。その芽が10センチほどに伸びたころ(5月の連休明けだが)、カットして食べる。「ミョウガタケ」という。庭の春の味だ。
  ミョウガタケだけではない。夏井川渓谷の隠居の庭からカエデの実生かなにかを掘り取り、ポット苗にして余った土を庭に捨てたら、キノコのアミガサタケの胞子が根づいて菌糸を形成したらしい。ミョウガタケと前後してアミガサタケが現れた。これも春の味だ。

そういうわけで、このごろは渓谷の隠居の庭だけでなく、平地のわが家の庭でもアミガサタケの有無をチェックする。

庭にはイカリソウが咲いている。チューリップもつぼみを膨らませてきた。モグラ塚があちこちにできている。アミガサタケは? まだだが、毎年出るとは限らない。

近所の義伯父の家にも春の土の味がある。セリ、ノビル(方言名ノノヒョロ)。カミサンがきのう(4月19日)、それらを採った。「毒ゼリではないよね」。見ると、食べられるセリにまちがいない。

ノビルを水洗いし、葉も刻んで、味噌を添えた=写真。酒のつまみである。鱗茎が小さいので、本来の辛みはない。でも、まあ春の味にはちがいない、と言い聞かせながら食べた。

2019年4月19日金曜日

コブハクチョウが繁殖

 日本野鳥の会いわき支部(川俣浩文支部長)から、支部報「かもめ」第142号の恵贈にあずかった。平成30(2018)年度ガン・カモ調査結果が同封されている。ありがたいことに、毎年、この時期に事務局長氏が届けてくれる。一読、特記事項に「コブハクチョウ、鮫川で繁殖し定着」とあった。驚いた。
 ガン・カモ調査は1月13日、いわきを南部・中部・北部の3地区に分けて一斉に行われた。南部は鮫川水系の河口~高柴ダムの4カ所、中部は夏井川水系の塩・愛谷堰・平窪・小川と小玉ダムの5カ所、北部は沿岸部の豊間・夏井川河口・四倉港ほか3カ所で水鳥をカウントした。

 その結果、多い順からマガモ1014羽、カルガモ(留鳥)619羽、コハクチョウ537羽、オナガガモ532羽、クロガモ357羽などが確認された。全体では28種3990羽で、一昨年(2017年)の3124羽よりは多いが、去年の4304羽よりは少なかった。

 私は、平の街への行き帰りに夏井川の堤防をよく利用する。春から夏はキジやウグイス、オオヨシキリのさえずりを聴き、ツバメの飛行を見る。秋にはハクチョウの飛来を待ち、春先にはそれらが帰っていく日を確かめる。そんなことを40年近く繰り返している。

師走も押し詰まった12月27日、街へ用があった帰り、いつものように夏井川の堤防を通ると、コハクチョウたちは周囲の田んぼへ採餌にいったらしく、1羽しかいなかった。チラリと見てそのまま通り過ぎようと思ったが、その1羽のくちばしの色と模様がコハクチョウと違っていた。目から付け根が黒く、その先がオレンジ色だ。コブハクチョウだった=写真。

日本野鳥の会いわき支部の『いわき鳥類目録2015』によれば、コブハクチョウはいわきでは「漂鳥」扱いになっている。公園などで飼われていたのが逃げ出し、野生化したのが日本各地に定着しているらしい。

たまたまわが家へやって来た野鳥の会いわき支部の元事務局長氏と雑談した折、「鮫川へはよく来てましたけど、夏井川は初めてではないですか」という。

その後、同氏から届いた手紙で、主に欧州に生息するコブハクチョウが公園の池などに放鳥され、繁殖し、一部が飛び立って、新天地でまた繁殖していることがわかった。

北海道で繁殖したコブハクチョウのなかには、霞ケ浦・北浦へ南下して越冬する個体もいる。茨城県水戸市の千波湖でも、コブハクチョウが繁殖し、近隣の湖沼に拡散している。というわけで、塩に現れたコブハクチョウは「南下して来たか、北上して来たか、全く不明」だった。

今年の調査日にも、塩のコブハクチョウは残留していた。それだけではない。南部の鮫川河口では6羽の繁殖・定着が確認された。

前にも書いたが、コブハクチョウはデンマークの国鳥だ。アンデルセンの童話「みにくいアヒルの子」や「野の王子」(白鳥の王子)は、コブハクチョウを題材にしている。良し悪しは別にして、いわきでも一年中、「アンデルセンのハクチョウ」を見られようになった。

2019年4月18日木曜日

山に上がったゲンゴさん

おととい(4月16日)、拙ブログで夏井川渓谷の小集落・牛小川にある「春日様」の祭りと直会(なおらい)の話を書いた。最後に、次のような文章を載せた。
――(直会では)世捨て人のように山にこもり、時折、集落をうろついていた「ゲンゴさん」のことも話に出た。住民が子どものころだったそうだから、昭和30(1955)年代後半から40年代前半のことか。

哲学者の内山節さんが『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(講談社現代新書)と『「里」という思想』(新潮選書)の中で、人間の「山上がり」について書いている。そのことを思い出した――。

 まだ木炭やマキが燃料の主役だった時代、牛小川も山仕事でうるおっていたそうだ。そのころ、集落から二つほど峰を越えた山中に、ゲンゴさんが掘っ立て小屋をつくって住みついた。ゲンゴさんは時折、牛小川に現れた。「春日様」のやしろに寝泊まりすることもあった。

 渓谷の山は、標高はそれほどではないが、V字谷になっているので険しい=写真(2018年4月15日撮影)。そんな山中にひとりで暮らすにはわけがあったのだろう。牛小川の住民はそんなゲンゴさんを受け入れ、見守ってきた。ゲンゴさんは山仕事に加わって賃稼ぎをすることもあった。

 内山さんが紹介している「山上がり」は、内山さん自身が東京と二点居住をしている群馬県上野村でのかつての話だという。昭和30(1955)年ごろまで、「いろいろな理由から経済的に困窮してしまう村人がいた。こんなとき村では、<山上がり>をすればよい、といった」。

「<山上がり>とは、山に上がって暮らす、ということである。森に入って小屋をつくり、自然のものを採取するだけで、たいていは一年間暮らす。その間に働きに行ける者は町に出稼ぎに出て、まとまったお金をもって村に帰り、借金を返す。そのとき、山に上がって暮らしていた家族も戻ってきて、以前の里の暮らしを回復する」

ゲンゴさんは、もしかしたら街からの「山上がり」だったのかもしれない。ゲンゴさんは山の豊かさに助けられ、山里の住民に排除されることなく、山中で暮らすことができた。今、こうしたホームレスはいるのだろうか。

現代人はとっくにサバイバル術を失っている。というより、生まれたときから便利な暮らしのなかで生きている。これを文明の進歩とみるか、野性の退歩とみるかは、意見の分かれるところだろう。

ゲンゴさんはしかし、山火事を起こした。それでいなくなったかどうかは聞かなかったが、牛小川の住民はそのことも含めて、子どものころの強烈な思い出として、ゲンゴさんをなつかしく振り返るのだった。

2019年4月17日水曜日

【復興】広域農道

 谷を刻んで流れる夏井川が扇状に広がる平地へと向かうあたり、地形的には平地より一段高い段丘に田んぼと小集落がある。田んぼはいわき市小川町上小川字西田、小集落は県道小野四倉線をはさんで山側の字高崎。
 この田んぼに、去年(2018年)夏から土砂が運ばれるようになった。土砂はやがて積み上げられて幾何的な形になった。

ちょっと前、道路のそばに看板=写真=が立って、何をしているのかがわかった。「新しい農道を造っています」。「【復興】広域農道整備3003工事」ともあった。

広域農道については昔から知っている。高崎に近い二ツ箭山中に、四倉の上岡地区から始まり、小川の福岡地区で終わる“天空のハイウエー”がある。

夏井川渓谷の隠居への行き帰り、といっても年に2~3回だが、気まぐれにここを利用する。四倉側にある「上岡トンネル」は、完成してはいるが通行はできない。小川側も、高崎近くで尻切れトンボになっている。「カネの切れ目が事業の切れ目」のようだった。

新聞記者時代、市役所を長く取材したので、行政マンの仕事のやり方は承知している。

広域農道は、県の農林事務所が担当している。予算の取り方は市町村となんら変わらないだろう。四倉~小川の広域農道は、担当部署(の人間)にとって、恥ずかしいくらいに中途半端なものだった(と、私は想像してみる)。

そこへ、3・11がおきた。広域農道もどこかで被害が出た。それを根拠に、“創造力”を駆使して復興予算を手に入れた。「【復興】広域農道」と【復興】を冠する必要があったのは、そのため(と、私はうがってみる)。

 日曜日(4月14日)に県道を通ったら、「新しい橋を造っています」という看板も立っていた。橋? 夏井川に? 高崎側の杉林が伐採されていた。県道をまたいで県道に接続するための跨道橋をつくる、ということだろう。

 この広域農道は、西田が終点かもしれない。としたら、夏井川渓谷の隠居への行き帰りに、天空のハイウエーをちょくちょく利用できる。牛小川(渓谷)~西田(対岸に東北電力夏井川第三発電所が見えると、すぐ広域農道に入る)~二ツ箭山(天空のハイウエー)~石森山(平)~わが生活圏と、一本の線で結ぶことができる。対向車両がほぼゼロ、なのがいい。

2019年4月16日火曜日

直会は学びの場

 きのう(4月15日)の続き――。日曜日の朝10時、定宿(じょうやど)から山中の「春日様」へ向かう=写真。戻って直会(なおらい)が始まった。
  直会の席は、夏井川渓谷の自然と人間を知る絶好の学びの場だ。小集落の周りの森にすむ生きもの、山菜やキノコ、川の魚たち……。書籍では得られない“現場”の情報にいつも圧倒される。 

 私は、グルメにはふたつある、と思っている。シェフがどう、ミシュランがどう――というのは、街の消費者の「レストラングルメ」のことだ。一方で、イノシシを仕留めて食べる、マツタケを採って食べる――といった「サバイバルグルメ」もある。渓谷の住民は後者の方だ。捕って(採って)、調理し、食べるサバイバル術を、小さいときから暮らしの中で培ってきた。

 私も野鳥や野草、キノコに興味がある。直会では、いつもこれらの話になる。今回は珍しく、イノシシからキノコまで精通しているA・Kさんが私に水を向けた。

「珍しいキノコを見つけたんでないの?」「ああ、熱帯のキノコのアカイカタケね」。詳しい説明は避けるが、同じ小川町の山で昨年(2018年)9月、いわきキノコ同好会の観察会が開かれた。前年、日本固有のトリュフ「ホンセイヨウショウロ」が発見された。トリュフの生息環境を知りたくて参加したら、たまたま林道沿いでアカイカタケを見つけ、採集することができた。

東北では初めてということで、同好会の会長から情報を得た古巣の後輩が取材に来て、新聞に載せた。A・Kさんはそれを覚えていたのだろう。

アカイカタケとトリュフの話をきっかけに、キノコの“取材”を始める。「マツタケの味噌漬けって、どうつくるの?」。わかる人がいなかったが、食べた人はいる。「うまくねぇ。マツタケは採りたてを食べるのが一番」。全員がマツタケを採る、といってもいい。でも、すべてマツタケについて知っているわけではない。そのくらいは、もう20年以上つきあっているのでわかる。

Kさんが“ツチカブリ”の話をした。オウム返しに聞く。「ツチカブリって、白いキノコ?」「違う、クロカワ」。なるほど、動植物、なかでもキノコは和名と方言に留意しないといけない。和名のツチカブリはベニタケ科で白く、乳液を含む。方言のツチカブリ(和名クロカワ)はイボタケ科で黒く、落ち葉などにまぎれて見つけにくい。私は、採ったことがない。

世捨て人のように山にこもり、時折、集落をうろついていた「ゲンゴさん」のことも話に出た。住民が子どものころだったそうだから、昭和30(1955)年代後半から40年代前半のことか。

哲学者の内山節さんが『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(講談社現代新書)と『「里」という思想』(新潮選書)の中で、人間の「山上がり」について書いている。そのことを思い出した。ゲンゴさんの話はいずれ紹介したい。

2019年4月15日月曜日

限界集落の春祭り

 夏井川渓谷の小集落・牛小川できのう(4月14日)、「春日様」のお祭りが行われた。といっても、神主が来たり、獅子舞が演じられたりするわけではない。集落の裏山に鎮座する社(やしろ)を参拝し、S・Kさんが自宅敷地内の納屋を改造した“交流スペース”で「直会(なおらい)」をするだけだ。
この日は集落の中央に「春日神社」ののぼりが立つ=写真上。これが唯一、磐越東線の乗客やそばの県道を通るドライバー、アカヤシオ(岩ツツジ)の花見客に、この集落が「ハレの日」であることを告げる。

 お祭りは、集落の誇りでもあるアカヤシオが満開になるころの日曜日と決まっている。今年は4月14日に決まった。ところが、例年より開花が早く、3月下旬には咲き出した。4月中旬には散っているかと思われたが、冬に逆戻りしたような天気が続いて持ちこたえ、全山みごとな花盛り=写真下=の中での春祭りとなった。
 私が参加するようになって、もう20年以上になる。集落の住民も同じ数だけトシをとった。山中の社への急坂がこたえる。「社を下に移すべ」。去年(2018年)までは個人のつぶやきだったのが、今年は直会の席で議論されるところまできた。

 それにはこんな事情も関係している。現住する人間はこの数年で4人が亡くなり、7世帯14人に減った(うち若い世代は4人。小・中学生はいない。一番小さい子が今春高校に入学した)。春日様の参拝・直会の参加者は、集落を離れて暮らす1人と、週末だけの半住民である私が加わり、9世帯となる。が、「限界集落」であることに変わりはない。

 住んでいる家が3~4世帯だけになったら、祭りは維持できない。いずれ人は死ぬ。無住になっても、牛小川の暮らしを知る次世代以降に「4月第2日曜日は牛小川に集まる」といった取り決めをして、きずなを維持しないと、集落は原野化する。人の目に触れる場所に社を下ろす。そうすれば、花見客や系列の神社の氏子は拝礼し、そこに人の営みがある(あった)ことを想像できる――。

直会では、そんなところまで話が広がった。本格的な議論はこれからだろうが、集落の総意がこうして形成されるという点では、「直接民主主義」の実例を見ているような感覚になった。

2019年4月14日日曜日

朝ドラと「かなしいやつ」

金曜日(4月12日)の朝ドラ「なつぞら」を見ていたときだ。
主人公の女の子が同級生の男の子の家を訪ねる。一家は東京で戦災に遭い、開拓農民として北海道へ移住した。割り当てられた土地はやせていて、作物がよく育たない。親は離農を考えている。「オレの力じゃどうすることもできない」。男の子が泣き崩れる。

大正末期から昭和初期にかけて、いわきから十勝地方に隣接する道東へ移住し、結果的に開拓に失敗して帰郷した詩人猪狩満直の一家を思い出した。

翌13日、つまりきのうは、周囲の開拓農民が協力してその土地を開墾する=写真。と、一気に9年が過ぎて、女の子と男の子は青春まっただ中の若者に成長していた。みんなが協力して耕した荒れ地は、緑豊かな畑になっていた。

ドラマの戦災移住と同じように、満直が移住したころには関東大震災による被災者移住があった。

満直は大正14(1925)年春、養父との確執から脱するため、「補助移民」となって、阿寒郡舌辛村二五線(阿寒町丹頂台)の高位泥炭地に入植した(北海道文学館編『北海道文学大事典』)。

補助移民とは? 元札幌大学長・桑原真人氏の「北海道の許可移民制度について」が理解を深めてくれた。

――北海道の近代化は内地からの移民に依存せざるを得なかった。屯田兵がその典型だが、開拓使時代から道庁時代に入ると、自主的な北海道移民が増加し、移民保護政策が財政的に負担となり、屯田兵を除いてそのほとんどは廃止されてしまう。

しかし、関東大震災後は、罹災者を北海道へ移住させる政策的配慮もあって、再び北海道移民への保護政策が復活する。それが、内務省によって推進された『補助移民』制度だ。この政策はある程度の成功を収めたので、昭和2年から開始される『北海道第2期拓殖計画』(第2拓計)の中にも継承され、『許可移民』制度として実施されることになった。――

こういう制度的背景(資金的な援助も含めて)を押さえながら、吉野せいの短編集『洟をたらした神』に収められた「かなしいやつ」を読んでいたので、朝ドラの開墾風景には思わず感情移入をしてしまった。

「かなしいやつ」に、満直がせいの夫・吉野義也(三野混沌)あてに書いた手紙が紹介されている。「俺もデンマルクの農業でも研究して理想的な農業経営をやりたいと思っている」

「デンマルクの農業」とはデンマーク式の有畜農業のことだ。同時代、デンマークから選抜されて北海道へ入植した一家は、北欧風の白い木造家屋を建て、畜舎をつくり、農耕馬2頭、乳牛6頭、豚20頭、鶏50羽を飼い、プラオ、カルチベーター、ハロー、ヘーレーキ、播種機、種子選別機などの機械を使って15町歩の有畜農業を経営した(北海道・マサチューセッツ協会ニューズレター日本語版=平成20年7月26日発行)。

内村鑑三の『デンマルクの国の話』にこうある。「デンマルクの富は主としてその土地にあるのであります。その牧場とその家畜と、その樅と白樺との森林と、その沿海の漁業とにおいてあるのであります。ことにその誇りとするところはその乳産であります、そのバターとチーズとであります」

朝ドラでも牛乳をつかったアイスクリームやバターが登場する。北海道の移民史やデンマーク式の農業その他、あれやこれやを思い浮かべながら見る楽しさが、この朝ドラにはある。

そういえば、草刈正雄演じるひげのじいさんは明治後期に入植した「北海道移民1世」という設定だ。満直よりは一回り大きい。

2019年4月13日土曜日

新紙幣の人物

 ある会議で、新紙幣の人物である渋沢栄一と福島県いわき市の関係が話題になった。
新紙幣が発表された4月9日、夕刊のいわき民報が1面でこれを報じた=写真。なぜローカル紙が写真付きでいち早く活字に? 古巣の新聞社ながら、意外に思った。ま、それはさておき、記事にはこうあった。

「スパリゾートハアインズを運営する常磐興産の前身・常磐炭礦は、明治17(1884)年に設立された『磐城炭礦社』が源流となっている。燃料調達の重要性から、渋沢は発起人の一人に名を連ね、会長に就任した」。見出しがいわきとの関係をよく語っている。「新1万円札に渋沢栄一/いわき地方の近代化に貢献/石炭採掘、鉄道敷設などに尽力(以下略)」

 5年後の2024年には、福沢諭吉に替わって渋沢が1万円札になる。5千円札は樋口一葉から津田梅子へ、千円札は野口英世から北里柴三郎へ。

 何年か前、必要があって北里関係の本を読んだことがある。福島県猪苗代町出身の野口とは別に、いわき出身の弟子がいて、台湾で功績を残した。それを調べるためだった。新紙幣――北里柴三郎ときて、そちらの方を思い出した。

4年前(2015年2月14日)に台湾旅行にからんで、次のようなことをブログに書いた。
                       ☆
現いわき市渡辺町出身の医学者高木友枝(1858~1943年)は、台湾では「医学衛生の父」と呼ばれる。

 いわき地域学會が編集し、いわき市が発行した『いわきの人物誌(下)』(1993年)で、戦前~戦中、若くして渡辺村の村政を担った高木善枝(1903~68年)が紹介されている。友枝は善枝の祖父直枝の弟だ。生家の孫の世代の跡取りも立派な人物だが、その大叔父も国を超えて評価される人物だった。

 田口文章北里大名誉教授のエッセー「暮らしと微生物」によると、友枝はペスト菌を発見した北里柴三郎の一番弟子で、師の指示で日本が統治していた台湾に渡り、伝染病の調査や防疫など公衆衛生的な仕事に尽力した。

 総督府医院長兼医学校長、総督府研究所長などを務めたほか、明石元二郎総督時代には台湾電力会社の創立にかかわり、社長に就いた。

 もともとは細菌学者である。ある研究レポートによると、畑違いの電力会社に関係したのは「人間関係の調整能力」を買われて、だった。田口名誉教授は、それとは別の見方を示す。マラリア研究の権威でもあった友枝は、「衛生状態の改善には経済的な発展が必要」と考え、みずから社長になって台湾電力を創設した。
 
 要するに、公衆衛生の官僚・学者としても、人間としても高い評価を得ていた、ということだろう。
 
 台湾電力会社が最初に手がけたのは、台湾中部の湖・日月潭を利用した水力発電だった。(以下は漢文のブログ=日本語に自動翻訳されたもの=などを読んで見えてきたことなので、まちがっていたらごめんなさい)
 
 日本が建設した水力発電所は、今は「大観発電所」と呼ばれる。日月潭を天然ダム湖とし、上流の山陰を流れる濁水渓からトンネルで日月潭に導水した。湖の水深はそれで最深6メートルから27メートルになった。この湖は人工的に深く、大きくなったのだ。
 
 発電用の水は、湖からさらに低地の濁水渓の支流・水里渓に設けられた発電所へと、導水トンネルを伝って流下する。その発電所から送電線と鉄塔が台湾の西側に張り巡らされている。
 
 日月潭へと濁水渓沿いをさかのぼっていったとき、送電鉄塔に出くわした。ときどきいわきの山里に出かけ、東電の1F・2Fからの送電鉄塔を眺める身には、台湾電力の送電鉄塔は小さくとも大きな物語を秘めている、と思われた。

台湾の初期の電気事業は種々の困難をのりこえ、長い時間と莫大な費用をかけて完成した。友枝がその創設にかかわったからこそ、この鉄塔も送電線もある――そんな思いでパチリとやった。
                    ☆
 渋沢といわき、北里と高木――は、紙幣にまつわる話としては、別に本質とは関係のない、周辺の、ローカルのネタだが、そこからかえって見えてくるものもある。私としては、高木を通して見るせいか、1万円札には北里の方がいいのではないか、なんて酔った頭で考えてしまう。実際、北里は福沢に多大な支援を受けた。

2019年4月12日金曜日

恩師の訃報

 さきおととい(4月9日)の午後、福島高専で教鞭をとった先生から突然、電話がかかってきた。全くの没交渉だったので、驚いた。元同僚のK先生(満88歳)が亡くなったという。
 ざっと半世紀前、K先生はS先生の次の担任だった。私は4年の途中で退学して東京へ飛び出し、3年半後にいわきへ戻って新聞記者になった。結婚して戸建ての古い市営住宅に入ると、斜め前の家がK先生の家(官舎)だった。その後、私は今の家へ引っ越し、先生も学校の近くにマイホームを建てた。

 定年退職後の2009年、春の叙勲で瑞宝小綬章を受章した。一番早く、しかも勝手に巣立った不肖の教え子が、仲間が卒業したあとは恩師の一番近くにいた。で、私が音頭を取って、電話で連絡を取り合い、都合のつく人間だけが集まって、いわきで祝う会を開いた。それもあって、N先生がK先生の奥さんに頼まれて、私に逝去の知らせをくれたのだろう。すぐメールで同級生に伝え、仲間に報知してもらった。

先生は会津出身だ。「1学期」を「イチガッチ」といった。学校を定年で退職したあとは、シニア海外協力隊員としてネパールに行きたい、といっていた。それがかなわなかったのにはわけがある。「三病」を抱えていたのだ。10年前の祝う会の拙ブログによると、こんな具合だった。

当時、恩師は79歳。70歳前に体に変調をきたし、以来、病気と共生しているのだ、といった。「四字熟語の『無病息災』に引っかけて、五字熟語で自分の体を表した。『三病准息災』。三病は脳こうそく・肺がん・心臓病。食事療法を主に闘病を続けてきた結果、毎晩ではないが好きな清酒を楽しめるまでに回復した。息災とは言い切れないものの、それに近い状態ということだろう」

もう一つ、「晴耕雨読」にひっかけて先生琉の五字熟語「晴耕工雨読」を披露した。「家庭菜園だけでなく、日曜大工も好き。『晴耕雨読』に『工』を加えた。そして『読』は、戦争体験者なので主として昭和史関係の本を読んでいるという」

ソメイヨシノの花が咲きこぼれ、周囲の丘や河川敷のヤマザクラ=写真=が花盛りになった今、恩師の訃報に接してサクラの原産地がネパールだったことを思い出した。通夜はあす(4月13日)午後6時から、告別式は14日午前10時半から、ライフケア平会堂で執り行われる。

いっときでもネパールに思いを寄せた恩師が、祝う会の席でわれわれ教え子にあてた礼状の一部を次に記す。「旧師の栄誉への賀意、この馨しくも優しい心根、大変ありがたく感謝にたえません。まさに教師冥利に尽きる念(おも)いです」。合掌。