これはもう体にしみこんだ経験則といってもいい。コミュニティは“ゴミュニティ”――ごみの出し方がきちんとしていれば、地域は“無事”だ。
が、問屋は、そうは卸してくれない。分別ができていない。出す曜日が違っている。ごみネットをちゃんとかけない。年度替わりの今は、それが目立つ。ラベルを張られたごみ袋が集積所に残っている。カラスがすきをついて生ごみを食い散らかす。しばらく無事だと思っていたら、必ずカラスにやられたり、違反ごみが出たりして、心に波風が立つ。
新年度を迎えたばかりの月曜日(4月1日)――。わが区を含めた近隣エリアは、「燃やすごみ」の日だった。わが家の目の前のごみ集積所では、さいわいカラスが生ごみを食い散らかすことはなかったが、50メートルほど先、さらには1キロ先の集積所は、厄介な事態になっていた。
これは推測だが、同じ人が同じような出し方をするから、カラスにやられる、ということなのではないか。違反ごみとして残されるのも、理由は同じだろう。
いわき市は毎年3月、隣組の回覧網を通じて新年度の「ごみカレンダー」=写真=を各戸に配布する。今年度(2019年度)もそれに従って住民はごみを出している。しかし、ごみを出すのは区内会に入っている人ばかりとは限らない。入っていない人は自分でごみカレンダーを手に入れるか、市のホームページで曜日とごみの種類を確かめるしかない。
今年度のごみカレンダーは残部がすぐなくなった。たまに転出入があるので、市のごみ減量推進課に電話して20部ほど郵送してもらった。欲しい人にはこれですぐ対応できる。区の役員としては、そのくらいの準備をしておかないと安心できない。
わが家の前のごみ集積所は、すぐそばに住んでいるという単純な理由から、わが家で管理している。ごみネットは常時出していると美観をそこね、紫外線を受けて劣化が進む。で、月曜日の早朝、電柱にネットのひもをくくりつけ、木曜日のごみ回収が終わると、ネットを引っこめる。
ごみ集積所を通して人間の本質が見える、などとはいわないが、コミュニティへの関心、マナー、義務と責任といったことは見えてくる。隣のアパートに住んで、区内会には入っていなくても、ルールに従っている限りはごみ出しを黙認する。地域が無事ならいいのだ。
3月最後の日曜日、区の総会が開かれ、終わって懇親会に移った。家の周りの美化をだれがやるのか、という話になった。草を刈る、ごみを拾う、集積所をきれいにする。住民である以上はできることをやる。つまりは当事者意識。ところが、区でやれ・行政に頼め、自分はやらない――という人もいる。
今度もまた、ゲーテが死ぬ直前に書いた4行詩「市民の義務」を思い出した。「銘々自分の戸の前を掃け/そうすれば町のどの区も清潔だ。/銘々自分の課題を果たせ/そうすれば市会は無事だ。」。ごみの出し方がきちんとしていれば地域は無事だ――の「無事」の根拠が、実はこれだった。
ごみ問題はエンドレス。違反ごみが出れば腹がたつ。どこのだれが、という思いになる。それでも、一方には「集積所をきれいにすることくらい、なんともない」という役員さんがいる。怒りや憤懣を希望に包んで飲み込み、めいめい自分の戸の前を掃こう――と、にっこりして言えるかどうか、自分に言い聞かせる。
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