2019年4月21日日曜日

浄土宗名越派のつながり

 平成7(1995)年に故佐藤孝徳さんが『浄土宗名越派檀林専称寺史』を出したとき、校正を担当した。
同寺は江戸時代、東北地方を中心に末寺が200を越える大寺院だった。同時に、やはり主に東北地方からやって来た若者が修学に励む“大学”(名越派檀林)でもあった。

わが家のある中神谷地区からは夏井川の対岸、山崎の山腹に伽藍=写真上=が見える。その寺が「東北文化の交流の場であり、新たな文化の発信地」(佐藤孝徳)だったことを知って以来、東北の浄土宗の寺の名を見たり聞いたりすると、『専称寺史』を引っ張り出して、末寺だったかどうかを確かめるクセが付いた。

3・11で大きな被害に遭った岩手県大槌町――。高台の大念寺で学生ボランティアによる「寺子屋」が始まったとき、やはり『専称寺史』に当たって、同寺が専称寺の末寺だったことを知った。太宰治の「津軽」に登場する今別の名刹・本覚寺も専称寺の旧末だ。

先日の夕方、TUFが「てくてくふくしま」というコーナーで桑折町を紹介していた。境内に「御蔭廼松(みかげのまつ)」=写真下=がある無能寺も登場した。
 専称寺で学んだ高僧・名僧は数多い。名越派を研究する孝徳さんらの論考で知った中で一番記憶に残るのは、江戸時代前期の無能上人(1683~1718年)だ。同寺も専称寺末ではないのか。

これは前にも書いたことだが、無能上人は今の福島県玉川村に生まれた。山形の村山地方と福島の桑折・相馬地方で布教活動を展開し、31歳で入寂するまで日課念仏を怠らなかった。淫欲を断つために自分のイチモツを切断し、「南無阿弥陀仏」を一日10万遍唱える誓いを立てて実行した――

無能上人は、江戸時代中期には伴嵩蹊が『近世畸人伝』のなかで取り上げるほど知られた存在だった。今は岩波文庫で読むことができる。

今度も『専称寺史』に当たった。「彼の思想を永く伝えるべく行動をおこしたのが上人の門弟不能上人である。不能上人は頽廃した桑折村の正徳寺に師無能上人の遺骸を改葬、享保20年(1735)無能寺と改称して律院とした」「あくまでも無能寺は専称寺末である」とあった。

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