2019年4月13日土曜日

新紙幣の人物

 ある会議で、新紙幣の人物である渋沢栄一と福島県いわき市の関係が話題になった。
新紙幣が発表された4月9日、夕刊のいわき民報が1面でこれを報じた=写真。なぜローカル紙が写真付きでいち早く活字に? 古巣の新聞社ながら、意外に思った。ま、それはさておき、記事にはこうあった。

「スパリゾートハアインズを運営する常磐興産の前身・常磐炭礦は、明治17(1884)年に設立された『磐城炭礦社』が源流となっている。燃料調達の重要性から、渋沢は発起人の一人に名を連ね、会長に就任した」。見出しがいわきとの関係をよく語っている。「新1万円札に渋沢栄一/いわき地方の近代化に貢献/石炭採掘、鉄道敷設などに尽力(以下略)」

 5年後の2024年には、福沢諭吉に替わって渋沢が1万円札になる。5千円札は樋口一葉から津田梅子へ、千円札は野口英世から北里柴三郎へ。

 何年か前、必要があって北里関係の本を読んだことがある。福島県猪苗代町出身の野口とは別に、いわき出身の弟子がいて、台湾で功績を残した。それを調べるためだった。新紙幣――北里柴三郎ときて、そちらの方を思い出した。

4年前(2015年2月14日)に台湾旅行にからんで、次のようなことをブログに書いた。
                       ☆
現いわき市渡辺町出身の医学者高木友枝(1858~1943年)は、台湾では「医学衛生の父」と呼ばれる。

 いわき地域学會が編集し、いわき市が発行した『いわきの人物誌(下)』(1993年)で、戦前~戦中、若くして渡辺村の村政を担った高木善枝(1903~68年)が紹介されている。友枝は善枝の祖父直枝の弟だ。生家の孫の世代の跡取りも立派な人物だが、その大叔父も国を超えて評価される人物だった。

 田口文章北里大名誉教授のエッセー「暮らしと微生物」によると、友枝はペスト菌を発見した北里柴三郎の一番弟子で、師の指示で日本が統治していた台湾に渡り、伝染病の調査や防疫など公衆衛生的な仕事に尽力した。

 総督府医院長兼医学校長、総督府研究所長などを務めたほか、明石元二郎総督時代には台湾電力会社の創立にかかわり、社長に就いた。

 もともとは細菌学者である。ある研究レポートによると、畑違いの電力会社に関係したのは「人間関係の調整能力」を買われて、だった。田口名誉教授は、それとは別の見方を示す。マラリア研究の権威でもあった友枝は、「衛生状態の改善には経済的な発展が必要」と考え、みずから社長になって台湾電力を創設した。
 
 要するに、公衆衛生の官僚・学者としても、人間としても高い評価を得ていた、ということだろう。
 
 台湾電力会社が最初に手がけたのは、台湾中部の湖・日月潭を利用した水力発電だった。(以下は漢文のブログ=日本語に自動翻訳されたもの=などを読んで見えてきたことなので、まちがっていたらごめんなさい)
 
 日本が建設した水力発電所は、今は「大観発電所」と呼ばれる。日月潭を天然ダム湖とし、上流の山陰を流れる濁水渓からトンネルで日月潭に導水した。湖の水深はそれで最深6メートルから27メートルになった。この湖は人工的に深く、大きくなったのだ。
 
 発電用の水は、湖からさらに低地の濁水渓の支流・水里渓に設けられた発電所へと、導水トンネルを伝って流下する。その発電所から送電線と鉄塔が台湾の西側に張り巡らされている。
 
 日月潭へと濁水渓沿いをさかのぼっていったとき、送電鉄塔に出くわした。ときどきいわきの山里に出かけ、東電の1F・2Fからの送電鉄塔を眺める身には、台湾電力の送電鉄塔は小さくとも大きな物語を秘めている、と思われた。

台湾の初期の電気事業は種々の困難をのりこえ、長い時間と莫大な費用をかけて完成した。友枝がその創設にかかわったからこそ、この鉄塔も送電線もある――そんな思いでパチリとやった。
                    ☆
 渋沢といわき、北里と高木――は、紙幣にまつわる話としては、別に本質とは関係のない、周辺の、ローカルのネタだが、そこからかえって見えてくるものもある。私としては、高木を通して見るせいか、1万円札には北里の方がいいのではないか、なんて酔った頭で考えてしまう。実際、北里は福沢に多大な支援を受けた。

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