先週末の4月20日、いわき市生涯学習プラザでいわき地域学會の平成31年(2019年)度総会が開かれた。終わって、記念講演が行われた。相談役の小野一雄さんが「『古文書が語る磐城の戊辰史』を語る」と題して話した=写真下。
小野さんはいわき歴史文化研究会の代表でもある。戊辰戦争150年の節目の去年(2018年)、同会と磐城平藩の藩士の子孫の集まりである平安会と協働で、『古文書が語る磐城の戊辰史』を刊行した=写真右下。
収録された史料は「安藤信正書状 上坂助太夫宛」や、江戸から船で北上、平潟に上陸した輪王寺宮に会津まで随行した泉藩御用医師滝川濟の「戊辰日乗」など17点、ほかに付録2点で、当時の藩士や農民などの個人の記録を翻刻し、解題を添えた。
本と向き合い、じっくり読み込むのが一番とはいえ、漢字だらけの文語体ではなかなか入り込めない。間に翻刻・編集側の生の解説が入ると理解が深まるのではと考えて、長い付き合いの“先輩”に講師をお願いした。
小野さんは、講演の中で①できるだけ多様な内容になるようにする②磐城での戦いが住民たちの生活にどのような影響を与えたかがわかる史料を取り上げる――といったことを編集方針にして本を編んだ、と語った。
個人的に興味をそそられたのは、磐城平藩の鋳物師・椎名家の記録だ。「椎名家記録書抜き」の解題によると、椎名家は藩のために大砲や玉筒を鋳造し、西洋流の「六斤山砲」「三斤山砲」「ハンドモルチヒル砲」もつくった。「嘉永六年のペリー来航前後、国内では国防の意識が急に高まり、各藩は重砲の製造や開発に力を注いで製造技術が発達した」。磐城平藩も例外ではなかった。
鋳物師は磐城平城の北側、梅香町に住んでいた。椎名家でつくった寺の梵鐘や鰐口などは、県や市の文化財に指定されている。
若いころ、梅香町に当主を訪ねて取材したことがある。何の取材だったかは忘れたが、先祖は江戸時代の鋳物師――ということだけは覚えている。しかし、その話を聞きに行ったわけではなかったようだ。
信正は、すでに引退していた。が、戊辰戦争が始まると、「逃げる兵がいるようでは駄目だ」とか「敵に先んじて攻めなければ後手に回るばかりだ」とか、戦いへの強い意思を示している(解題)。
安藤家は、磐城平藩領のほかに、美濃(岐阜県)に飛び地があった。当主・信勇は戊辰戦争が始まったころ、この飛び地に滞在していて、西軍に早々と恭順の意を示した。「しかし、地元の平では藩主不在のなか、藩論が二分していた」という。信正の書状から推し量れば、どちらが優勢だったかはいうまでもない、か。
「佐川与五右衛門遺書」は、戦いに参加する藩士(父親)が、農家へ養女に出した3歳の娘にあてたものだ。「武家にむまれ 我が娘たること 相違なし」「実の父母よりは 養父母のかた かへつて恩ふかきぞかし」「武家の身ほど このほどはおそろしく既に我か家も たへはてんとす」。父親の情愛がよく伝わってくる。
小野さんの講演を聴き、それにリンクして本を読み返すことで、この戦いが「住民たちの生活にどのような影響を与えたか」が、少しみえてきたようだ。
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