2019年4月1日月曜日

「乙字のトランク」展

 きのう(3月31日)は平成30(2018)年度最終日で日曜日。きょうは31年度最初の4月1日。昼前には新元号が公表される。
 行政区の総会がきのう開かれ、現体制で2年間引き続き活動することが決まった。その最初の仕事が「広報いわき」4月号その他の回覧資料の配布だ。きょう、これから役員さん宅に届ける。

 広報紙に「本年度の教育文化施設・観光施設のみどころ・体験どころ」が載っている。勿来関文学歴史館の新年度最初の企画展は「乙字のトランク~大須賀乙字と近代俳句~」だ=写真。これには目がテンになり、やがてじんわりうれしさがこみあげてきた。そのワケは? 2010年5月1日付の拙ブログを読んでもらうのが一番。次に再掲する。
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いわきゆかりの近代文学で欠かせないのが大須賀筠軒(いんけん=1841~1912年)・乙字(おつじ=1881~1920年)親子。幕末から大正元年まで生きた筠軒は、日本有数の漢詩人にして画家、そして学者。その息子の乙字は明治~大正の俳人・俳論家だ。

 きのう(5月1日)、いわき地域学會の事務局仲間3人と私とで茨城県ひたちなか市へ出かけた。乙字の最初の妻(宮内千代)の出身地(旧那珂湊町)で、その血筋に筠軒・乙字関係資料が残っていた。事務局のWクンに、千代が大伯母(つまり乙字が義理の大伯父)にあたる男性からインターネットを介して問い合わせがあり、「資料を見に行きましょう」となったのが去年のこと。

 それが今度、やっと実現した。大きくはないトランクと、それより小さいトランクに、手紙やはがき、絵の下書き、その他が詰まっていた。「賢治のトランク」ならぬ「乙字のトランク」だ。もっとも、宮内家の主にあてた手紙やはがきも多い。

 乙字あての高浜清(虚子)、そして乙字の再婚相手であるまつ子の父親・松井簡治の手紙がある。乙字の祖父である磐城平藩儒者神林清助(復所)あての書簡を巻物にしたものがある。

 茨城出身で、いわき市平で暮らした歌人大内与五郎さんの、宮内家当主にあてた年賀はがき、同じく暮鳥の支援者と同名の、たとえば丹四郎からの喪中を告げるはがきもある。

 この二つの「宝箱」の中身は、まだ公にされていないだろう。一つは書簡類、もう一つは書画類。筠軒の筆になると思われる松島全景図やイギリスの捕鯨船、布袋様には目を見張った。とはいえ、漢文はちんぷんかんぷんだ。筠軒に詳しい地域学會の先輩を連れて来なかったのが悔やまれた。

 午後1時から4時間をかけてWクンが資料を写真に収めたものの、透明なアクリル板を持って行かなかったので和紙の折り目やしわはそのまま。それでも写真を先輩に見せれば、次の展開が見えてくるかもしれない。本格的な調査のための予備調査ということにして、この日の作業を切り上げた。

 千代は乙字より早く亡くなっている。なぜ復所・筠軒・乙字三代にわたる資料が那珂湊に残されたか。筠軒が仙台で没したあと、彼の遺品を乙字夫婦が継承し、さらに乙字から千代にあてた書簡、乙字あての書簡なども加えて千代が実家に保管していた――ということなのだろうか。

 その謎解きはともかく、貴重な資料が保管されていた事実に感動して、時のたつのも忘れて一枚一枚に見入ったのだった。
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それから9年――。去年だったか、勿来関文学歴史館の旧知の学芸員から電話があった。ひたちなか市へ一緒に行った仲間を介して千代の親族と連絡が取れたのだろう。乙字ゆかりのいわきの地で、ひたちなかの「乙字のトランク」展が実現した。9年間抱いてきた思いが、学芸員の情熱と重なってやっとかたちになった。

乙字は俳人で俳論家。今私たちが普通に使っている「季語」を初めて用いた人でもある。39歳という若さで亡くなった。死因は肺炎だが、それを誘発したのはインフルエンザ(スペイン風邪)だった。

研究者によると、日本では①1918(大正7)年8月下旬にインフルエンザが流行し始め、10月上旬に蔓延して11月には患者数・死者数が最大に達した②2回目は翌1919年10月下旬に始まり、20年1月末が流行のピーク――だった(東京都健康安全研究センターによる精密分析)。乙字は2回目のピーク時、インフルエンザにかかり、1月20日に亡くなった。

その意味ではざっとだが、スペイン風邪100年、乙字没後100年に当たるわけだ。4月20日から7月16日までの長期開催になる。何回か通って資料に“再会”するつもりでいる。

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