内郷、好間その他でロケが行われた。冒頭、川で子どもたちが水遊びをしている。好間川らしい。北好間の炭住が映る。炭鉱の西方に位置する阿武隈の山並み。このスカイラインには送電鉄塔も無線塔もない。きれいなものだ。映画の中盤、内郷の常磐炭砿住吉坑のズリ山がアップされたときには、満席の場内から「オーッ」と歓声がわいた。
炭鉱育ちだという知人が、子どものころ通った私塾仲間と来ていた。映画が撮影されたころは6~7歳。それから60年以上たった今、ズリ山や炭住は跡形もない。だからこそ記憶の底に眠っている“原風景”を確かめたかったのだろう。
悪徳興行主にしぼりとられる一方の旅回り一座が、炭鉱の劇場で公演する。同じころ、炭鉱でも労働者がストライキを始める。劇場が拠点になる。最初はぶつかりあった両者だが、やがて“同居”し、協力し合う関係になる。搾取に対して団結して闘おう――そんなメッセージを秘めた映画だ。
非正規雇用が増えただけでなく、「夫婦で65歳から10年間生きるには、老後の資金が2000万円足りない」などと言われる時代になった。それもあって郷愁と共感を呼んだのか、「内容がおもしろかった」という知人もいた。
炭鉱を知らない私は、好間で夫と開拓生活を続けた作家吉野せいの短編「水石山」に出てくる内郷の様子を知りたくて、映画に見入った。
せいは昭和30年秋のある日、菊竹山にある自宅を飛び出す。プチ家出だ。「村を横ぎり、鬼越(おにごえ)峠の切り割りを越えて隣町に出たが、いつか見た高台の広い梨畑地区は住宅団地に切りかえられはじめて、赫(あか)い山肌が痛ましくむき出していた」
このくだりがずっと引っかかっている。内郷で大規模に開発された団地といえば高坂だが、それは昭和40年代に入ってからのことだ。時間的なズレ、矛盾がある。
「水石山」を含む短編集『洟をたらした神』で田村俊子賞と大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したせいだが、内郷に関するこの記述は、あえて時間を超えた表現になっている。つまり、事実を踏まえた作品とはいえ、フィクション性もある――。次の写真と鳥観(ちょうかん)図がその思いを補強する。
市内郷支所2階に、昭和36年秋、内郷市街を空撮した大型写真パネルが飾られている。まだ健在のズリ山に「現・高坂二丁目」、東隣の丘陵地に「現・高坂一丁目」と、ラベルが張ってある(高坂二丁目はズリ山を切り崩して造成された)。
もう一つ。昨年度(2018年度)前期、いわき総合図書館で常設展「鳥瞰図にみる『合併前のいわき』――磐城・勿来・常磐・内郷・四倉」が開かれた。ポスターとチラシに、内郷市役所が昭和32(1957)年に発行した「内郷市鳥瞰図」が使われた=写真。ズリ山と東隣の丘陵の関係が一目瞭然だ。
そして、今度の映画「浮草日記」。映画そのものを楽しんだだけでなく、せいの作品のフィクション性をあらためて確信した。せいの別の作品「ダムのかげ」や「いもどろぼう」にも、炭鉱作業員が登場する。彼らの生きた世界を具体的にイメージできるようになったのも収穫だった。
映画のあとにロケ地を訪ねた映像リポートが流された。これもまた“炭鉱文学”を読み解くうえで参考になる。
映画のあとにロケ地を訪ねた映像リポートが流された。これもまた“炭鉱文学”を読み解くうえで参考になる。
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