おととい(9月6日)の毎日新聞に、1面左肩と4面のすべてを使った長編ルポ「S ストーリー」が載った=写真(4面の一部)。「S ストーリー」はコロナ禍で6月中旬から休載していたそうだ。再開第一弾として、今年(2020年)生誕100年を迎えた作家川内康範(1920~2008年)とその息子の、半世紀余に及ぶ断絶と情愛を描いている。
康範は作家、脚本家(テレビ草創期の「月光仮面」など)、作詞家(「君こそわが命」「おふくろさん」など)のほかに、「国士」を自任して政界に食い込んだ。しかし、不戦・護憲を訴える人間でもあったという(若い世代には「レインボーマン」の原作者、といった方が早いか)。
1面の見出しは「同じ虹探した父子/一時代築いた川内康範の素顔」。4面は「月光仮面は誰でしょう/失って初めて知る父親からの伝言」「届かぬ『君こそわが命』」「愛と正義 メッセージ残し」。月光仮面は2歳で生き別れた息子へのメッセージだった――というのが、筆者の元「サンデー毎日」編集長、同紙オピニオングループ記者・隈元(くまもと)浩彦さんの結論だ。父が、子が探した「同じ虹」、それもまた2人を、人と人をつなぐ心の架け橋のことだったのだろう。
康範にとっていわきは「第二の郷土」。彼のつてで、『たった二人の工場から』で知られる真尾倍弘(詩人)・悦子(作家)夫妻も一時、いわきで暮らした。
戦後まもなく、康範がリードしたいわきの文芸運動などをからめて、7月に隈元さんの取材を受けた。「掲載紙を送った」という連絡を受けて、すぐコンビニへ走った。記事の分量は400字詰め原稿用紙に換算してざっと15枚。単発の新聞記事としては最長の部類に入るだろう。
康範は青森県三沢市に眠る。康範の息子の弁護士飯沼春樹さん(72)の墓参に同行したときの様子が、1面に載る。4面は「ストーリー」の本題。康範といわきの結びつき、離婚と「月光仮面」の成功、母親の再婚、東京大学入学と弁護士開業……。父の、子の人生が交互に語られる。
父親から一方的に連絡がきて会うだけの「縁の薄い父子の関係」だった。それだけではない。晩年は年賀状を送っても、「もうよこさないでくれ」と拒絶される。「おふくろさん」をうたう森進一への厳しい態度にみられるような狷介(けんかい)さがあった。
しかし、ほんとうの胸のうちはどうだったのか――。康範の側近、最晩年の秘書の話、当時4歳だった春樹さんへあてた手紙、康範の3番目の妻からの手紙などを掘り起こすことで、春樹さんに対する康範の変わらぬ愛情が浮かび上がってくる。
春樹さんもまた子どものころ、映画「月光仮面」を介して父親の顔を、姿を知る。「『月光仮面』のメッセージは、愛と正義。振り返れば、弁護士という職業を選んだのも、と思う。父親の教えは体の芯に入っている、と今は感じる。『月光仮面』は僕に残してくれた言葉なんですよ」。長い時間をかけて、息子がようやく父親を受け入れる境地に至ったというべきか。
綿密な取材のおかげで、康範といわきのつながりがはっきりした。日米開戦前、海軍兵時代に受け取った慰問袋がいわきからのものだった。肺疾患で海軍を除隊し、青森の療養施設を出たあと、贈り主の家を訪ねてお礼を述べる。それが最初のいわき訪問だった。敗戦の年の暮れ、再びいわきを訪れる。やがて贈り主の姉と結婚し、春樹さんが生まれる。そのあとの展開は先に書いた通り。
「亡くなる前、(略)『福島のボート小屋は面白かった』と言っていたんですよ。それが住まいの呼び名とは考えもしなかった」。最晩年、秘書として仕えた人の話である。私生活を明かさなかった康範の、いわき時代を推し量ることができる貴重な証言でもある。戦後間もないいわきの文化シーンをひもとくうえで重要な資料が追加された、というべきだろう。
1 件のコメント:
吉田様、本当にお世話になりました。心から感謝申し上げます。平の文化の地層の深さに圧倒されています。
コメントを投稿