春先から続くコロナ問題で、吉野せい『洟をたらした神』(中公文庫)=略して『洟神』=の「注釈づくり」を忘れていた。エーリヒ・マリア・レマルクの小説『凱旋門』を再読したはずみで、同じ作者の『西部戦線異状なし』=写真=に手が伸び、先日、ようやく読み終えた。それで自分に言い聞かせたのだった。『洟神』の「注釈づくり」を再開しなければ――。
第一次世界大戦で戦死した若いドイツ兵を主人公にした反戦小説である。1929(昭和4)年に発売されると世界的なベストセラーになった。翌年、アメリカで映画化され、米国アカデミー賞最優秀作品賞、最優秀監督賞を受賞した。日本では同年秋に公開された。
『洟神』所収の「赭(あか)い畑」に、映画「西部戦線異状なし」の話が出てくる。混沌・せい夫妻の友人だった女性教師が、ある晩、「子供を全部混沌に押しつけて私を誘い、夜道を往復二里、町まで歩いて『西部戦線異状なし』を見て来た」。2年前、拙ブログで取り上げているので、それを抜粋する。
――「赭い畑」の末尾にある「昭和10年秋」に引っぱられて、いわき地方には5年後に映画が巡って来た?と考えていたが、甘かった。同10年、9年、8年、7年と、常磐毎日新聞に絞ってすべてのページを見る。どこにもそれらしいものはない。だが、いつかはたどり着くと楽観して見続けたら、昭和6(1931)年9月10日付の「平館」の広告に、上映は10日から4日間限り、料金は20銭とあった。
次女梨花を亡くしてから8カ月余り。せいはまだ32歳で、新聞や雑誌の懸賞小説にも応募している。自分の創作のために、よりよい刺激を求めて友人の女性教師と平・南町の平館へ出かけたのだ。10~13日のなかで土曜日は12日。おそらくこの日の晩、2人は出かけたのだろう。――
推測通りなら、せいが平館へ足を運んだのは89年前のきょう(9月12日)、土曜日夜のことである。
原作は「僕」の一人称で貫かれている。その僕が見た塹壕(ざんごう)戦、戦友(同級生)の死など、戦争の種々相が描かれる。18歳で志願兵として「学徒出陣」をした主人公は、三度戦地へ赴くうちに20歳になる。
「僕らは子供のごとく打ち捨てられ、年寄のごとく経験を積んだ。僕らは粗暴となり、悲しみを抱き、表面的になった……僕はこう思っている。僕らはもう人間としては価値のないものになっていると」
「僕はまだ若い。二十歳の青年だ。けれどもこの人生から知りえたものは、絶望と死と不安と、深淵のごとき苦しみと、まったく無意味なる浅薄粗笨(そほん)とが結びついたものにすぎない。国民が互いに向き合わされ、逐(お)い立てられ、何事も言わず、何事も知らず、愚鈍で、従順で、罪なくして殺し合うのを、僕は見てきた」(註・粗笨は粗雑と同じ)
そして、ラスト。主人公が死んでも、軍から司令部への報告は「西部戦線異状なし、報告すべき件なし」だった。
一兵士の内面とリアルな戦場の姿を具体的に描写することで、作品は国を超え、民族を越えて受け入れられた。作者はジャーナリストだったが、作品に通底しているのは国家天下を論じる「正義のジャーナリズム」ではなく、無名の戦士とともにある「共感のジャーナリズム」だ。
原作を読んだからには、その内容を、原作と映画の違いを含めて書き加えないといけない。でないと、「赭い畑」の、映画「西部戦線異状なし」の注釈は完成しない。そしてまた新たに生まれたギモン。せいは、小説は読んでいたのかどうか。日記(残っているなら)の公開が待たれる。
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