2020年9月29日火曜日

石油ランプと「ばっぱの家」

                                
 いわき市暮らしの伝承郷で、「収蔵品展 灯りの道具」が開かれた=写真(チラシ)。最終日の日曜日(9月27日)午後、ギリギリに入館した。

目当ては石油ランプに行灯(あんどん)、提灯(ちょうちん)――。阿武隈高地は鎌倉岳(976メートル)の東南麓、現田村市都路町岩井沢字北作地内にかやぶき屋根の「ばっぱの家」があった。昭和30(1955)年前後でも、夜の明かりは石油ランプと角行灯、提灯だった。

隣家から100メートル以上、一番奥の隣家まではさらにそれ以上ある「ポツンと一軒家」だ。ふだんは祖母が一人で住んでいた。母親に連れられて泊まりに行く。夜になる。石油ランプに灯がともる(昼はよくランプのほや=ガラス製の筒=の掃除をさせられた)。

風呂は便所と隣り合わせで外にあった。手持ち棒付きの提灯で足元を照らし、それを明かりにして風呂に入った。枕元には寝る前、角行灯がともされた。

夜、向かい山からキツネの鳴き声が聞こえてくる。ランプの明かりがつくる自分の影が大きくなって動く。寝床にもぐると、すぐ行灯が消されて真っ暗になる。小学校低学年のころまでは、この三つがとても怖かった。

「灯りの道具」展では、展示解説書を開きながら、それぞれの照明具を見て回った。石油ランプは西洋から輸入され、大正時代に入ると全国的に普及した。「明治時代の文明開化を象徴する新しい灯り」だったという。角行灯は、江戸時代に最もよく使われた屋内用の行灯だ。周りは和紙で囲われており、中に火皿が置かれていた。

昭和に明治が、江戸が共存していた「ばっぱの家」。明かりの道具の歴史と仕組みがよくわかると同時に、新たな疑問も生まれた。角行灯の燃料は菜種油だったとしたら、祖母はそれをどこから手に入れていたのか。小さな社会、つまりローカルな世界のなかで必要なものを調達する仕組みができていたのではなかろうか。

母親に連れられて街道から小集落に入り、家が見えるあたりから「来たよー」と大声を出す。すると、祖母が家から顔を出す。帰るときには逆に、畑の間の小道を歩きながら、振り返り振り返り「さいならー、また来っからねー」と大声を出して祖母に手を振る。祖母は家の前からずっと孫の姿を見送り続ける――。

そうそう、「ばっぱの家」の右手には、上の沢から木の樋で水を引いた池があった。そこで鍋釜や食器を洗った。ご飯つぶを食べるコイもいた。樋の水を手桶にためて運んだ。池の水が流れ出る先は小さな林で、その中の小流れで笹舟を流したり、木の枝で水車をつくったりして遊んだ。怖い夜の記憶は楽しい昼の記憶の裏地のようなものだった。

三つか四つのころ、夕食を食べようというときに、ゆるんでいた浴衣のひもを踏んで囲炉裏の火に左手を突っ込んで大やけどをしたことがある。左の小指と薬指のまたが今も癒着してちゃんと開かない。

「ばっぱの家」は、今は杉林に変わった。東日本大震災と原発事故が起きたときには放射性物質が降って、一帯の住家では除染が行われた。

7年前(2013年)のゴールデンウイークに、実家へ帰る途中、「ばっぱの家」の跡を訪ねたときには、杉林の後ろに黒いフレコンバッグが仮置きされていた。2年前(2018年)、またゴールデンウイークに寄ってみたら、フレコンバッグは消えていた。

 今風にいえば、毎日がキャンドルナイトでスローライフ。いいことも悪いことも含めて、黄金のような記憶が詰まっている場所だ。毎週日曜日、夏井川渓谷の隠居へ行って土いじりをする。その原点は、鎌倉岳東南麓の「ばっぱの家」――。

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