2020年9月27日日曜日

明治の女性記者

                    
「ジャーナリスト」9月号を読んでいたら、福島民友OBの町田久次さんが「福島初の女性記者」について書いていた。「~明治44年、福島にいた~謎の女性記者・木村よしの」がタイトルだ=写真。

「謎」はともかく、木村は明治22(1889)年、福島市に生まれ、日本女子大英文予科で学んだあと、文芸協会演劇研究所(男女優養成所)の第1期生として女優を目指した。その後、福島に戻り、21歳で民友記者となった、とある。再上京したあとは、結婚相談の仕事を続けたらしい。

 町田さんの調査によると、明治44(1911)年5月7日付同紙に「入社の辞」が載り、その6日後には早くも3回連載の「本県師範女子部」の訪問記を書いている。内容は「相当過激」だが、「当時の女性解放論や女権拡張運動につながっていて、現代においても十分に通じる主張」だという。

 それで思い出したのが「新しい女」たちだ。平成23(2011)年、いわき総合図書館で「雑誌『青鞜』と『新しい女』たちの肖像」展が開かれた。「青鞜」創刊100年を記念した企画展示で、「青鞜」とつながる「新しい女」たちが紹介された。

会期中に、明治学院大非常勤講師岩田ななつさんが「『青鞜』と福島の女性」と題して話した。そのときの拙ブログを抜粋する。

 ――明治末に、男性につき従う「良妻賢母」の殻を破り、自我の確立を主張する女性が出現する。先陣を切ったのは、いいところのお嬢さんたち。高等教育を受けていて、物おじをしない。ときに、世間が眉をひそめるようなこともする。明治44(1911)年9月に創刊された女流文芸雑誌「青鞜」が、その牙城だった。

地方にあって、「青鞜」を読むような「新しい女」はいなかったのだろうか。大正14(1925)年にいわきで発行された比佐邦子(クニ)著『御家庭を訪れて』が、良くも悪くも参考になる。いわき地方の知名人の妻・母・お嬢さんなど女性だけ161人が紹介されている。

比佐はどうやら「新しい女」には否定的だったようだ。あるお嬢さんを評してこう書いている。「現代ある一部の女性達が心の深奥な要求を拒み生命そのものに背を向けてゐるやうな婦人解放論者等には見出せない尊さがある」。婦人解放論者とは「青鞜」一派のことに違いない。――

比佐は明治30(1897)年、湯本町に生まれた。山村暮鳥の取り巻きの一人で、上京して結婚後、関東大震災で夫を亡くし、帰郷して平の磐城新聞社に入社した。おそらくいわき地方での女性記者第一号だ。「御家庭を訪れて」は半年ほど磐城新聞に連載された。のちに福島民報社に転じ、年下の同僚と結婚し、昭和12(1937)年、40歳でこの世を去った。

木村が「新しい女」と歩みを同じくし、8歳年下の比佐がそれとは距離をおく。時代というより、個性がそうさせたのだろうか。

 ついでながら、朝ドラ「はね駒(こんま)」のモデルになった相馬出身の礒村春子(1877~1918年)は、「日本の女性記者の草分け」だそうだ。

 この前、いわきの新人女性記者のコラムを読んだ。「学生のころ親戚と私が乗っていた車が崖から落ちた。あの浮遊感と絶望感をずっと忘れることはないだろう。初めて『死』を覚悟した瞬間。こんなにあっけなく死んでいくんだと感じた。幸いたいした怪我もなく無事だったが、そこから少し物の見方が変わったように思う」

そう、3・11でも痛感したことだが、当たり前と思っていた「日常」や「いのち」は、実は奇跡的なほど尊いものなのだ。そのことを忘れずに、「考える足」になって取材すれば、きっといい記事が書ける。

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