秋の彼岸にカミサンの実家(米屋)へ線香を上げに行った。母屋の奥に土蔵がある。東日本大震災で正面のなまこ壁が一部はがれ落ちた。9年半がたって、ようやく改修が始まった=写真。
まずは災後の拙ブログから――。わが家の場合は、地震でコンクリートの基礎が割れ、道路に面した側が沈んだらしく、戸がきちんとしまらなくなった。2階の部屋の床と壁にもすきまができた。全面改修は無理なので、災害救助法に基づく住宅の応急修理制度を利用して、補助金の範囲内で改修をした。
「半壊」の判定を受けた離れ(最初は書庫、最後は物置)は、損壊家屋等解体撤去事業を利用して解体・撤去した。今は庭の一部として、カキの実の落下を避ける車の臨時駐車場になっている。
カミサンの実家の土蔵は、解体するところまでは傷んでいなかったようだ。いよいよ壁などを改修する段になって、義弟が業者を選んだ。わが家を改修した大工氏だった。浜に自宅と作業場があり、本人はかろうじて津波から逃れた。自宅は残ったものの「全壊」の判定を受けた。
大工氏とは若いときに知り合った。結婚後は仕事に没頭し、何年かに一度、知人の美術展のパーティーで会うくらいだったが、震災直後、今は大学生になった“孫”の父親と宅飲みをしているうちに、大工氏の話になり(父親も知り合いだった)、電話で無事を喜び合った。それだけではない、近所に避難中だったので、すぐ付き合いが復活した。
その大工氏がカミサンの実家の土蔵を直すというのだから、人のつながりというものはわらない。
義弟が土蔵の前まで案内して説明してくれた。入り口の上からせり出している屋根をヒノキの柱が支えている。「いつのまにかこんな立派な柱が立っていた」。前は壁からほんのちょっと離れたところに柱があった。それから見るとスケールが大きい。寺の本堂の上がり口を覆う「向拝(こうはい)」を連想させる造りだ。合掌してから土蔵の中に入るような、そんな厳かさがある。
震災にも負けずに残った土蔵が知り合いの手でよみがえる、という意味では喜ばしい、のだが……。大工氏は、父親が宮大工だった。本人も寺社の改築などを手がける。腕は間違いない。それだけに材料や様式にもこだわる。施主としては予算内に収まるかどうか気になるところだろう。
「なまこ壁は?」「しない、何千万もかかるから」。そのへんは大工氏も承知しているはずだが、よくよく相談、いや念を押した方がいい。
これも拙ブログから――。9年半前の震災では、わが家の向かいの家の土蔵が解体された。3・11で傾き、1カ月後の4・11と翌日の震度6弱でさらに大きなダメージを受けた。真壁の土蔵を板で囲い、瓦で屋根を葺(ふ)いた、重厚だが温かみのある「歴史的建造物」だった。幹線道路沿いには、ほかに土蔵は見当たらない。歩道側の生け垣とよく合い、独特の雰囲気を醸し出していた。土蔵の前を下校中の小学生が通る。絵になる光景だった。
もうひとつ。カミサンの小川町の親類の家にも白壁の土蔵があった。扉の両脇と高窓には「こて絵」が施されていた(高窓は「巾着」、扉の右側の壁には「俵と白鼠(ねずみ)」、左の壁は……忘れた)。門外漢ながら、贅(ぜい)を尽くした土蔵を見るたびに圧倒されたものだ。この土蔵も3・11で被害を受け、解体された。
土蔵が新しく造られるということはもうないだろう。だから、改修・保存へと踏み切ったのは英断といっていい――と、ここまで書いてきて思い出した。義弟自身、家業を継ぐまでは企業に勤める建築士だった。
0 件のコメント:
コメントを投稿