2021年12月27日月曜日

年輪の話・上

                              
 40歳のときに、2歳年下の哲学者内山節さんの『自然と人間の哲学』(岩波書店、1988年)を読んで、おおいに留飲を下げた。

その2年前、『山里の釣りから』(日本経済評論社、1986年)を読んで、内山哲学のファンになった。以来、内山さんの本は欠かさず買って読んでいる。

 水や大気、土壌などの汚染問題、いわゆる公害が少しずつ改善され、代わって地球規模での環境問題が顕在化しつつあった昭和50年代(1975~84年)――。

自然を守るには人間の立ち入りを制限すべきだ、という意見が自然科学系の一部で言われるようになった。それだと農林水産業はどうなる? とてもじゃないが、賛同できなかった。

私自身、人間が自然に濃密にかかわる山里で生まれ育った。自然は自然、人間は人間と切り離し、保全だけを前面に出したら、第一次産業を否定することになる。

そういうモヤモヤを一気に解消してくれたのが、内山さんの『自然と人間の哲学』だった。内山さんは自然と人間の関係を、自然と自然、自然と人間、人間と人間の三つの交通としてとらえる。

その三つの交通を壊さないように、人間は自然を利用してきた。農村景観、これが美しいのは三つの交通が安定しているからだ。

美しいムラの景観が、人の手が加わらなくなったらどうなるか。つまり、生産と生活の基盤が壊れたら、たちまち自然は荒れる。

原発事故で避難を余儀なくされた町村のその後の風景は、「自然は寂しい/しかし人の手が加わると暖かくなる」(民俗学者宮本常一)、その「暖かさ」とは真逆のものになった。

 要は、自然と人間の関係が「収奪」ではなく、「共生」を保っているかどうか。共生状態を保っていれば、ムラはおのずと安定して美しい。

以上のことを思い出したのは、環境問題を論じたアメリカの本に、なにか内山哲学と共通するにおいのようなものを感じたからだ。

アルド・レオポルド/新島義昭訳『野生のうたが聞こえる』(講談社学術文庫、2005年第3刷)=写真。本の中に出てくる本が図書館にあれば借りて読む。本から本へ渡り歩くなかでこの本に出合った。

著者は森林管理官として働き、のちにウィスコンシン大学野生生物管理学科の教授を務める。「環境倫理学の父」と言われているそうだ。

「ぼくは週末にはいつも、近代化されすぎた都会を逃れて、家族ぐるみで奥地の農場の『掘立小屋』で過ごしている」。その観察と行動、自然保護にまつわる思考や感想などが、本の中に盛り込まれている。

週末は都会を離れて田舎で過ごす――。向こうは学者、こちらは日曜日に夏井川渓谷の隠居で過ごすただの市民、「月とスッポン」でも、共通性があるというだけでうれしくなった。

それと、もうひとつ。100年くらいの木が伐採される。2人の男がのこぎりを引き合う過程で年輪の、つまり木が生きてきた時間に思いをはせる。と、ここまで書いてきて、1200字ほどになってしまった。

年輪の話で思い出すのは、川内村と草野心平のこと。「下」ではそのことも含めて書くとするか

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