2021年12月24日金曜日

「古巣」の解体はじまる

                     
 これは解体中のビルへの極私的な「悼辞」だ。建物の解体に連動して、自分の体の骨が、筋肉が悲鳴をあげる――もちろん比喩にすぎないが、しかし、心理的にはそれに近い。

 いわき駅の西側で「並木通り地区第一種市街地再開発事業」が進められている。まずは区域内の古い建物を解体しないといけない、というわけで、いわき民報ビルなどが白いシートで覆われた。

いわき駅前再開発ビル「ラトブ」から西方をながめると、並木通り北側で3カ所、シートが張られている=写真(12月12日撮影)。一番左側の建物がいわき民報ビルだ。

 昭和45(1970年)2月下旬の深夜、いわき民報社とレストラン・ブラジルの入った木造2階建ての社屋が、隣家の火事で類焼する。2月いっぱいは休刊を、3月初めも減ページを余儀なくされたが、間もなく通常のページ建てに戻る。

 一方ですぐ、紙面で地上5階・地下1階の新社屋ビル建設計画が発表される。わずか1年後の同46年5月、大型連休明けには臨時社屋から新しいビルに移転した。

 私は移転1カ月前にいわき民報社に入った。臨時社屋で先輩記者のお茶くみと鉛筆削りをしながら、記者見習を続けた。

 臨時社屋から新社屋への引っ越しは、ゴールデンウイークの5月2~3日に行われた。新しいビルには結婚式場「ことぶき会館」もできた。

さっそく婚礼キャンペーンが行われ、社長の一声で一番ヒマな記者見習が花婿のモデルをさせられた(2年半後、社員としてそこで結婚式を挙げる)。

 その後、警察回りから始まって、市政担当、勿来支局勤務、内勤を重ね、平成19(2007)年秋に役員をやめるまで、37年近くをこのビルとともに生きてきた。

 このビルは、その意味では社会へ乗り出しては帰って来る「母港」だった。地上5階のみならず、地下の工務局と食堂も含めて、ビルの隅々まで人生の喜怒哀楽がしみついている

 いわき民報ビルの壁面が開いてフレコンバッグが運び出されるのを、ラトブの5階あたりから見ると、痛みに似た感覚が走るのは、やはり「部内者」としての記憶が深く絡み合っているからだろう。

 解体現場ではいつも、公共建築物などを梱包する美術家として知られるクリストを思い出す。が、今回はそんなゆとりはない。

もう一つ、昭和46年で思い出すのがイトーヨーカドー平店だ。大型連休が始まる前日の4月28日にオープンした。いわき民報ビルよりは1週間ほど早い。同店も50年の歴史に終止符を打ち、解体作業が終盤を迎えた。

東日本大震災と原発事故が起きたあと、シャプラニール=市民による海外協力の会がいわきへ支援に入り、最初はラトブ、次いでイトーヨーカドー平店、最後はスカイストアで交流スペース「ぶらっと」を運営した。いずれも日常の生活用品を買うには便利なところだった。

駅の西と東で改造が進み、JR東日本も駅の西にホテルと商業の複合施設を建てる。北口でも総合病院の新しい建物が立つ。あっという間に駅周辺の景観は変わる。

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