2021年6月24日木曜日

忘れていた詩人の日記

                                
 図書館の新着図書コーナーに、なつかしい、というよりは忘れていた詩人の本があった。『蒲原有明日記 1945―1952』(公孫樹舎)=写真。有明は日本の文学史上、薄田泣菫とともに高く評価された明治詩壇のスターだ。

私は、大正初期、磐城平で独自の文学を開花させた山村暮鳥から詩を読みはじめたので、有明も泣菫も歴史上の人物として知るだけだ。が、終戦時から8年間の日記は現代史の資料としても読める。明治の詩人が戦後も生きていたという驚きもあって、すぐ借りた。

有明は昭和27(1952)年2月3日、急性肺炎で亡くなる。その8日前の1月26日、日記にこう記す。<午后午睡より起きて後座蒲団に轉び腰を強く打ちたり」直に臥床」>

私は今年(2021年)の年頭、家の中での転倒事故を防ぐこと――という誓いを立てた。老化で弱くなった足腰が、コロナ禍の巣ごもりでさらに弱くなった。正月三が日、さっそく階段で足をぶつけ、座布団でこけそうになった。一方の足で支えられるうちはいいが、その足までぐらついたら、柱に頭をぶつける、手を痛める、といったことになりかねない。

それを思い出した。有明は座布団につまずいて転んだ。腰を強打して寝込み、床から起き出したと思ったら、予期せぬ死が待っていた。詩人というよりは一人の老人の戦後日記、その晩年の記録ととらえると、より身近なものになる。

有明は関東大震災後、自宅のある鎌倉から静岡へ移り住み、昭和20(1945)年6月19日深夜~20日未明の空襲で家が全焼する。9月中旬には、管理人を介して川端康成に貸していた鎌倉の自宅に帰った。川端と面識はなかったが、同じ「文芸道のよしみ」でひとつ屋根の下に住む同意が得られた。両家の同居は川端が引っ越すまで1年ほど続いた。

日記は静岡空襲のあった年のその日、6月20日に書き始められる。それ以前の日記、あるいは蔵書などは家とともに灰になったのだろう。最初の1行は<△未明敵機約百五十機来襲、静岡市ハ殆ト焦土ト化セリ、予ガ家モ全焼>である。終戦の玉音放送には<タダタダ声ヲ呑ミ落涙スルノミナリ>。

時代の大きな節目ばかりか、庶民の暮らしや季節の移り行きも細かく書き留める。8月25日には<△廿二日午前〇時ヲ期シテ気象管制解除、天気予報復活」>、同28日<赤蜻蛉出ヅ」>。9月15日に静岡から鎌倉へ帰住したあとの17日には<隣組長ヨリ予等自宅復帰ニヨリ隣組当番変更ノ旨通告シ来ル」>。

購入した食品その他の値段を克明に記しているのには驚いた。たとえば、昭和20年師走の24日。<△大型バケツ七円(戦災者ニ配給)/△サメ百八十五匁十六円七十銭、アンコウ十円、漬菜一束三円六十五銭」/△参考[マグロ百匁四十五円]>。クリスマスイブの記述はもちろんない。

 編集・解題を担当した高梨章さんは「あとがき」で「有明の日記で目につくのは、綿密な物価の記載である。(略)男の日記でこれはめずらしいのではないか」と記す。

 有明と同じく脚光を浴び、有明と同じく大正に入ると文壇を離れた泣菫が、戦後すぐの10月9日に68歳で亡くなる。10月18日の日記にそれを記している。<△(略)大変動ノ最中ニテ、新聞モ僅に数行ノ訃報ヲ掲ゲシノミナルハ、寂シキ心地ス」>。自分が死んだときもまた、という思いがよぎったのではないか。

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