2021年6月8日火曜日

雨情ともう一人のいとこ

                                 
 野口雨情(1882~1945年)は二度結婚した。最初の妻は高塩ヒロ、二度目は中里つる。つるとの間に生まれた野口存弥(のぶや=1931~2015年)は編集者・作家でもあった。平成6(1994)年に研究書『大正児童文学――近代日本の青い窓』(踏青社)=写真=を出した。

 雨情のいとこに村上辰太郎がいる。雨情の伯母が錦村(現いわき市錦町)の滝川家に嫁ぐ。夫は元泉藩医。のちに福島県議会議員になる滝川濟(わたる)で、三男の淑人が滝川家を継いだ。『大正児童文学』によると、辰太郎は淑人の弟で、水戸市の村上家に養子に入った。

 勿来関文学歴史館で7月4日まで、「野口雨情――童謡詩人といわき」展が開かれている。図録に書かれていなかったことで、いわきに関係するものがあった。雨情ともう一人のいとこ・辰太郎のことを、どこか(ブログではない別の媒体)に書いたような記憶があるのだが、思い出せずにいた。

 いわきに浜通り俳句協会がある。旧知の結城良一さんに頼まれて、季刊の会誌「浜通り」にエッセーを連載したことがある。通しのタイトルは「いわきの大正ロマン・昭和モダ――書物の森をめぐる旅。それをパラパラやっていたら、あった。平成24(2012)年5月発行の第144号に「野口雨情と村上辰太郎」のことを書いていた。それを抜粋する。

 ――雨情の湯本温泉時代は足かけ2年と短い。雨情は大正6(1917)年、錦村の従兄の家(滝川家)から入山採炭の事務所へ通った。このあと、2児を連れて湯本町の柏家(芸妓置屋)に住んだ。同7年秋には水戸で中里つるとの生活を始める。

 存弥は『父 野口雨情』(筑波書林ふるさと文庫)で、淑人の弟・村上辰太郎から聞いた話を紹介している。滝川家は「常磐線植田駅から約4キロ入ったところにあった。父はそこの2階建ての離れに起居し、辰太郎の兄、滝川淑人が幹部社員として勤めていた湯本の入山炭坑の事務所に勤務することになった」

 存弥の『大正児童文学』によれば、辰太郎は明治25(1892)年生まれで、雨情よりは10歳若い。

 雨情―辰太郎とくれば、山村暮鳥である。『定本 野口雨情 第6巻』で雨情が暮鳥の思い出をつづっている。

「初めて暮鳥氏に逢ったのは、磐城平の教会時代でありました。又、最後に逢ったのは大正10年の秋、大洗ホテルに滞在中だった久木独石馬氏をたづねた時だと思ひます。暮鳥氏に最も尊いところは、すべての物を真直ぐに見ることの出来たことです。この点に於て、又その境遇に於て、石川啄木と、人としても芸術としても一致点の多かったことを思はれて、ゆかしくなります」

 暮鳥の平時代は大正元(1912)年9月から7年1月までの5年3カ月である。磐城平の教会時代に暮鳥を雨情に引き合わせたのは従弟の村上辰太郎だったのではないか。辰太郎は暮鳥が主宰した「風景」などの同人だった。小学校の先生をしていた。そのころ、湯本温泉に従兄の雨情が現れた。暮鳥は湯本の幼稚園とも関係していた。湯本で顔を合わせたのではなかろうか、などと想像してみるのである――。

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