いわき地域学會の第361回市民講座が土曜日(6月19日)午後、いわき市文化センター中会議室で開かれた=写真。
コロナ禍による公共施設臨時休館の影響で開催が1カ月延期されたうえ、予定していた会場(1階の大講義室)が急きょ、平地区の「新型コロナワクチン接種予約サポートセンター」になったため、2階の中会議室に変更された。
「3密」を避けるために、スペースに応じて利用人数が制限されている。中会議室は1と2があって、仕切りが取り払われている。両方を借りれば、人数的には大講義室と変わらない。
1の場合、テーブルは3列5脚。そこにイスが1脚、次は2脚という組み合わせで、定員は20人ほどだ。これに2を加えれば40人ほどになる。
4月末に講座開催の案内はがきを、そして5月に入ってすぐ1カ月延期を知らせるはがきを出した。案内はがきには大講義室が会場のため「定員40人」(先着順)「入場整理のため、このはがきをご持参ください」という文言を入れた。また、地元3紙には毎回、予告と取材を依頼していたが、今回は自粛した。結果的には、受講者は20人ほどだった。
新年度最初の講座は夏井芳徳副代表幹事が担当する。今回の演題は「元文3年の一揆」だった。
ざっと280年前の元文3(1738)年9月、酷税に苦しむ磐城平藩内の農民が決起する。
歴史的には「元文百姓一揆」といわれるもので、「一揆の直接的原因は、領内の百姓町人にたびたび御用金を申し付けて厳しく取り立て、高率の年貢をかけ、さらに多くの役金を申し付けて苦しめた、強度な収奪」にあった(いわき地域学會編『新しいいわきの歴史』)。
夏井副代表幹事は、明治の碩学、大須賀筠軒(いんけん=1841~1912年)の『磐城史料』をテキストに、一揆の経過を解説した。来年(2022年)は内藤氏の磐城平入封から400年の節目の年に当たる。それを踏まえた講座だった。
死を覚悟して百姓を指揮し、城の役人と対峙した人物のひとりに、中神谷村の(佐藤)武左衛門がいる。「死生ノ際ニ臨ミテハ、百姓モ、役人モ一人ハ一人ナリ。我等進退ノ決スハ一ニ願書ノ許否、如何ニアリ。生死ノ決スルモ、亦、此ニアルナリ」。いやあ、すごいことをいう――と思って聞いていたら、武左衛門は「さむらい崩れ、旧岩城家の家臣」だったとか。
もう一人、小川村柴原の(吉田)長次兵衛について。カミサンの伯父が同じ柴原の吉田家へ婿に入った。生前、わが家へ何度か遊びに来た。歴史好きで、長次兵衛のことをよく話していた。吉田家は1軒だけではないだろうから、長次兵衛が先祖かどうかはわからない。が、偉大な郷土の先達、という思いがあったのだろう。長次兵衛を慕い、敬う気持ちはなかなかのものだった。
いつか柴原の親類の家を訪ねたら、そのへんのことを聞いてみたい。ネットで知ったのだが、近くの遍照寺に長次兵衛を供養する門がある。建て主は義伯父らしい。それもこの目で確かめたい。
さて、一揆の結果はどうなったか。武左衛門と長次兵衛は「死罪獄門七日さらし」だった。処刑された12人の中では最も重い。なんというか、義憤のようなものが時空を超えてわいてくる。
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