2021年6月26日土曜日

「洟をたらした神」と「二銭銅貨」

        
 吉野せいの短編「洟をたらした神」は、昭和初期の子どものおもちゃと遊びがテーマだ。

数え六つの男の子ノボルは、家が貧しいので、独楽(こま)や竹トンボなどは自分でつくる。ヨーヨーが欲しいのに、買ってもらえない。で、山から“こじれ松”の枝を取ってきて、ヨーヨーを自作する。その夜、ヨーヨーの出来栄えに親子が歓声を上げる――そんなストーリーだ。

ノボルがヨーヨーの代金2銭を母親にねだる場面がある。母親、つまりせいは「ヨーヨーなんてつまんねえぞう。じっきはやんなくなっちまあよ」といいながら、来年、学校にあがるときにはカバンでもなんでも買ってやる――と、話を別の方向にもっていく。

せいは、それから不意に、昔読んだ黒島伝治の「二銭銅貨」を思い出して作品の概要を記すのだが、実際の「二銭銅貨」=写真=とはだいぶ構成が違っている。

先日、たまたま思い出して、図書館から筑摩書房『日本文學大系 56』を借りた。葉山嘉樹・黒島伝治・平林たい子の3人集で、なかに収録されている「二銭銅貨」を読んでわかった。

「二銭銅貨」は短編も短編、400字詰め原稿用紙で9枚程度の超短編だ。「洟をたらした神」と同じように、子と母親が向き合う。こちらは、欲しいものはヨーヨーではなく、独楽のひもだ。

母親と雑貨店へひもを買いに行く。長いひも(10銭)と短いひも(8銭)があった。母親は値段の安い方を選び、10銭を渡して2銭銅貨を受け取る。

このつり銭の2銭銅貨が、「洟をたらした神」ではひもの値段になっている。ヨーヨーの値段2銭との整合性をはかって、あえてそうしたのか。あるいは、記憶が変形してそうなったのか。「コマ紐の二銭、ヨーヨーの二銭、が妙に胸にひっかかって、唯貧乏と戦うだけの心の寒々しさがうす汚く(略)」思えてきたのだから、記憶が変形したのだろう。

短いひもでは、長いひもで回す独楽には勝てない。子どもは牛が回って粉を引く小屋に入り、回転する柱を利用してひもを長くしようと、ひもの両端を持って牛のあとを回る。ところが、なにかのはずみで手からひもがぬけて転ぶ。そこへ牛が回ってきて踏みつける。母親が見つけたときには、子どもは死んでいた。

2銭ではなく8銭、母子2人ではなく親子4人と、「二銭銅貨」から「洟をたらした神」を読み解いてもしかたない。が、せいの作品の注釈づくりを進めるためには、一度は実証的な側面から見ておく必要がある。

ヨーヨーが世界的に流行するのは昭和8(1933)年。それがいわき地方にも波及したことは、同年3月26日付の常磐毎日新聞でわかる。ヨーヨーの広告が載る。地元・平町の「佐藤挽物製作所」がつくり、特約玩具店を通じて売り出した。「安値 一個五銭 十銭 二十銭」とあった。

ま、注釈は注釈として、純粋に作品を楽しむのが一番。とはいえ、作品を深掘りすればするほど、短編集『洟をたらした神』は、ノンフィクション性が薄れてフィクション性が増していく。

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