コロナ禍で1カ月延期されていた中央公民館の新年度前期市民講座がスタートした。近代史の本田善人さんが「明治前期、地域における建言や新聞投書――地域民衆の言論活動とその成長」と題して5回にわたって話す=写真上。いわき地域の新聞史にも重なるテーマだ。
初回は「近代社会のスタート、地域言論活動の事始め」だった。なかで「いわき地方史研究」第6号(昭和44=1969年)に載った「磐前県(いわさきけん)一覧表」=写真下=を紹介した。「会社」欄(下段中央のやや右側)に「新聞紙局 1 庁中」「同展観社
7 市在」とある。
同6号で一覧表を報告した菊池康雄さんは、新聞紙局について「平に新聞社が1社あったことがわかるが、新聞社の名称や、どのような新聞が刊行されていたのか」、また新聞展観社についても「これは新聞を読ませて料金を取ったものか、ご存知の方があったら御垂教を」と書いた。
それから24年後。平成5(1993)年に『いわき市史 3
近代』が刊行される。本田さんが執筆した第1章「明治新政府といわき」の第1節「明治維新期の政治と民衆」のなかに、菊池さんへの答えが載っていた。
同書によると、磐前県は明治6(1873)年、布告類の迅速な配布・周知を徹底するために活版印刷機を導入し、5月から活版印刷の県布告を発行した。さらに、同年10月には「磐前新聞」第1号を県庁内の新聞紙局で印刷・発行した。
それからさらに28年がたった今年(2021年)。「磐前新聞」の現物を初めて見た。いわきの地域新聞の淵源ともいうべき重要な史料だ。タイミングよくいわきの近代史の講座が始まり、1回目で早くも同新聞を発行した「磐前県」について具体的な知見を得ることができた。
出久根達郎『昔をたずねて今を知る――読売新聞で読む明治』(中央公論新社、2003年)に「新聞縦覧所」が出てくる。昔、本を読んでメモを取ったことを思い出した。
明治5(1872)年11月ごろから、格安料金で各種の新聞が読める「新聞縦覧所」が東京に出現したそうだ。
「例を浅草奥山に開業した『新聞茶屋』にとると、店にテーブルと椅子を置き、見料は1紙2厘か2厘半、茶代が5厘であった。日本橋の大観堂は時間制で、1時間1銭、また6年7月に開業許可を得た、神田栄町の博聞堂は、見料が茶代とも1日2銭、1カ月37銭5厘。新聞の種類が15紙で、その名称が挙げられている」
磐前県のエリアは浜通り全域および田村郡・石川郡・白川郡(今の東白川郡)で、平に県庁が置かれた。このエリアに7カ所の新聞縦覧所があったことになる。本田さんは「政府が3紙を提供し、全国の先進例を新聞で学ぶように奨励した」という。
本田さんが講座で示した史料から「いわき地方史研究」に当たり、『いわき市史』を読み直し、関連書物のメモを引っ張り出したら、新聞縦覧所のイメージが少しわいてきた。
菊池さんではないが、料金を取ったのかどうか、茶屋風だったのかどうか、なども含めて、地方の新聞縦覧所の実態を知りたくなった。
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