いわき市内の平地の川、なかでもわが生活圏を流れる夏井川は支流の好間川・新川を含めて、日々、変容している。「令和元年東日本台風」で流域が甚大な被害を受けた。その復旧と防災工事が続く。
10年半前の「東日本大震災」では、ハマが大津波に襲われた。その復旧・復興のなかで沿岸部の大改造が行われた。海と川でつながる内陸部でも、河川敷の立木伐採・土砂除去といった大改造が進む。
平市街の北を夏井川と好間川が、南を新川が流れる。新川は平南白土地内で、好間川は好間町川中子(かわなご)地内で夏井川に合流する。川中子は、川にはさまれた土地、を意味する地名だろうか。
川と川が出合うところは土砂がたまりやすいのだろう。新川合流部では令和元年の前から、重機が入って土砂採取が行われている。ハクチョウの越冬地としても知られる。なにより視界を遮るものがない。
そばの右岸丘陵には名刹・専称寺がある。夏井川左岸の堤防を行き来する人間には、ビューポイントのひとつだ。
上流の好間川と夏井川の合流部はどうか。夏井川左岸に竹林が広がっているために、堤防からは合流部がまったく見えなかった。今度の大改造で、その竹林が消えた。
先日、夏井川渓谷の隠居へ行くのに、街から平橋を渡り、幕ノ内で夏井川左岸の堤防に出た。そのとき初めて、好間川が夏井川に出合うところを見た=写真(午後、隠居からの帰りに撮影)。
川に挟まれた土地の先端は舳先(へさき)のようにとがっていた。川中島ではないが、パリのシテ島を連想した。好間川は新川より流路が長い分、水量も川幅もある。
この川中子で詩人の猪狩満直(1898~1938年)が生まれた。大正元(1912)年、日本聖公会の牧師で詩人の山村暮鳥が磐城平に着任する。5年余りの短期間だったが、暮鳥はキリスト教のほかに文学を“布教”した。暮鳥の文学が磐城平で開花し、暮鳥のまいた詩の種も磐城平で発芽した。
三野混沌(吉野義也)や、のちに混沌と結ばれる若松せいが暮鳥ネットワークに属していた。満直もその一人だった。
混沌は、川中子とは夏井川をはさんで目と鼻の先の下平窪字曲田で生まれ、その西方、好間川の左岸、菊竹山の麓で、せいと梨農家として生きた。
満直は妻子を連れ、移民として北海道へ渡るが、やがて帰郷し、信州へ働きに出たあと、病を得て実家で亡くなる。
吉野せいは『洟をたらした神』所収の「かなしいやつ」で満直を回想している。菊竹山は曲田同様、川中子からも3~4キロしか離れていない。満直がまだそこに根を張っていた若いころ、たびたび山を訪れた。自産の野菜などを携えて。
「筍の節は筍を、真夏は水々しい胡瓜や茄子を、氷雨の降る日にヒゲ根の生えた赤いにんじんと白茎の長い葱の一束をどさりと雨のもる土間に投げ出してくれ」た。
川中子で栽培されるネギは有名だった。洪水が運んだ砂地だからこそネギはよく育つ。「川中子ネギ」。シテ島のような土地を眺めていると、その豊穣を思い、そこを飛び出さざるを得なかった骨肉の葛藤を思う。そして今度また(2年前)、台風19号の被害に遭った家があることも。
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