2021年9月10日金曜日

巣ごもりの「副反応」

                     
「巣ごもり」が基本のリタイア組なので、コロナ禍で図書館は休み、公民館や所属する団体、地域の行事も相次いで中止=写真=となれば、いよいよ外出する機会が減る。すると、巣ごもりに慣れ過ぎて、社会とつながっている意識が薄れる。巣ごもりにも「副反応」があるらしい。

区の役員をしている。年間6~7回は開いている役員会の回数を減らした。区対抗の球技大会や体育祭が2年続けて中止になったことが大きい。

区の役員と子供を守る会の役員が一緒になって話し合い、役割を分担して当日を迎える。毎年開催しているからこそ、体で一連の流れ(連絡・調整)を覚えていたのだが……。2年の中断でこの感覚が薄れてきたような気がする。

 以前は地元の公民館でたびたび夜の会議があった。車で出かけた。夜の運転もルーティン(日課)の一つだった。このごろは、これがない。すると急に夜、車を運転するといつも以上に神経を使うようになった。

 ついでながら――。若いころ、繁華街(田町)が職場の目の前にあった。たびたび連れ立って飲み歩いた。表の通りは主に商店だったが、今はそこさえ飲食店に変わっている。

夜、飲みに行かなくなったことが大きいのだろう。一帯を通ると、どこかよその街に迷い込んだような錯覚に陥る。

唯一、田町で知っているスナックのママさんは、コロナ禍の今、どうしているだろう。廃業まではいかなくとも、休業状態ではないだろうか――そんな心配がよぎる。

外出自粛以後、私の中のなにかがおかしくなっている。はっきりいえるのは、社会生活を営むにはそれなりの緊張感が必要なのに、巣ごもりでそれが「お休み」状態になっていることだ。

車を運転する。人に会って話す。あいさつする。さまざまな「場面」でのルーティンが状況に対応する力を養い、日常生活を営むウデを維持してきた。そして、これもコロナ禍のなかで進行したルーティンのゆるみというしかない。

「まだいい」「まだいいか」を繰り返しているうちに、車の燃料計の針が残り4分の1を指すところまで傾いた。そのまま夏井川渓谷の隠居へ行った帰り、さすがに気持ちが落ち着かなくなって、ガソリンスタンドへ駆け込んだ。

「外出」は確かに減った。しかし、だからといって「避難」の準備を怠っていいことにはならない。

 社会とつながるということは、社会が抱える矛盾とも向き合うことだ。その最たるものが10年前、東日本大震災に伴って起きた原発事故だろう。

事故直後に車で避難した。燃料の残りを計算しながらの道行きだった。そのときの経験が“教訓”になって、今も車の燃料計の針が半分を指すと、満タンにする。

事故を起こした1Fでは廃炉作業が進められている。仮の安定状態が続いているだけで、いつまた避難を余儀なくされるかわからない。そんな思いが頭から消えたことはない。

震災後、燃料計が4分の1になるまでほうっておいたのは、おととし(2019年)8月、スペイン人の若い夫婦がホームステイし、車であちこち案内したとき以来だ。ネジを巻き直さないと――。

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