2022年12月23日金曜日

キョウヨウとキョウイク

                     
 用があって外出したついでに、ときどき海岸までドライブする。塩屋埼の灯台は格好のビューポイントだ=写真。

日曜日は夏井川渓谷の隠居へ行く。いわきのハマ・マチ・ヤマのうち、ヤマとマチの様子は暮らしのなかで自然に確かめられる。

 パソコンをいじっていると、たまにアップデート(更新)という言葉に出合う。マチとヤマの今に触れている意味では、日々、あるいは週単位でヤマとマチの様子をアップデートしていることになる。

 しかし、ハマはそうはいかない。3・11以来、変貌が著しい。行くたびに風景が変わっているところもある。

 11年たって、さすがに落ち着いてはきたが、ハマの情報もアップデートしないと、現実と記憶の間にずれが生じる。そうならないよう、意識して海岸道路を走るようにしている。

 別の言葉でいえば、「キョウヨウ」と「キョウイク」。これを自分に言い聞かせている。「教養」と「教育」ではない。「きょう、用(がある)」「きょう、行く(ところがある)」という意味だ。

何年か前、地区の区長の集まりがあったとき、だれかがこの話をした。なるほど。会社を辞めて“縛り”がなくなったときを思い出した。

一日24時間がすべて自分の自由時間だと喜んだのはいいが、朝起きて寝るまでの間、何をして過ごしたらいいのか、苦労した。「キョウヨウ」と「キョウイク」がない。現役を退いた人間の「自由」とはこんなものかと思った(幸いすぐに仕事が入ったが)。

 キョウヨウとキョウイクは、その意味では社会とどうつながるか、孤立ではなく、他者との関係をどう維持するか、ということでもあろう。

 以来、15年。波はあるにしても、意識してキョウヨウとキョウイクのある暮らしを続けてきた。が、コロナ禍がそんな日常に立ちはだかった。

 年金生活者なので、基本は「巣ごもり」だ。コロナがさらに巣ごもりを強く求め、キョウヨウとキョウイクを遮断した。副反応がすぐ現れた。去年(2021年)9月の拙ブログから一部を紹介する。

――コロナ禍で図書館は休み、公民館や所属する団体、地域の行事も相次いで中止となれば、いよいよ外出する機会が減る。すると、巣ごもりに慣れ過ぎて、社会とつながっている意識が薄れる。

年間6~7回は開いている区の役員会も回数を減らした。区対抗の球技大会や体育祭も続けて中止になった。

大会前には区の役員と子供を守る会の役員が一緒になって話し合い、役割を分担して当日を迎える。毎年開催しているからこそ、体で一連の流れ(連絡・調整)を覚えていたのだが、それもおぼつかなくなる――。

なかでも、車はキョウヨウとキョウイクに欠かせない。コロナ禍前はたびたび夜の会議があった。車で出かけた。夜の運転もルーティン(日課)の一つだった。

今は、コロナ禍と加齢が加わって、夜の運転には神経を使う。そのうえ、最近、車を買い替えた。キョウヨウとキョウイクを自分で用意しないと、新しい車に慣れるのに時間がかかる。ハマまで足を延ばすのは、そうしてハンドルのさばきや土地勘を維持するため、といってもいい。

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